最終章 ── 十年ぶりの、短いメッセージ
十二月の、よく晴れた土曜の朝だった。
私は台所に立って、湯をわかしていた。ゆうべは少しだけ眠れた。壁の向こうで、いつものようにコトリと音がした。けれどその朝は、なぜかそれほど気にならなかった。上の階の人もきっと今ごろ、こうして朝の支度をしているのだろう。そう思ったら音が少しだけ、遠くなった気がする。
先週、思い切って電話をかけた。「こころの健康相談」という窓口だった。受話器を握る手が汗ばんでいた。何を話せばいいのか分からなくて、最初に出てきたのは「最近、あまり眠れていなくて」という言葉だけだった。
相手の人は私の話を遮らなかった。壁の音のことも、感情が伝わってしまう感覚のことも、途中で「そんなはずはない」とは言わなかった。ただ静かに聞いて、「それは、おつらかったですね」と言った。その一言で、私は電話口で少し泣いた。誰かにつらいと認めてもらえたのは、いつぶりだっただろう。
来週、近くの心療内科を予約した。行くのは怖い。けれどあの日、シオンさんという人の言葉を思い出す。眠りはいちばん深い鞘なのだと。私は今、その鞘を取り戻そうとしているだけなのだ。
湯がわいた。茶をいれて窓辺に座る。冬の光がテーブルの木目を温めている。ずいぶん久しぶりにこの部屋が、ただの静かな部屋になっていた。
携帯電話を手に取った。娘の連絡先は消さずに残してある。十年、一度も押せなかったボタン。
何を伝えればいいのか、分からなかった。長い言い訳も謝罪の言葉も、どれも違う気がする。指が何度も止まった。壁の向こうで、また小さな音がした。今度はそれが、背中を押してくれたように感じた。
結局、私が送ったのはたった一行だ。
「元気にしているか。父さんは少しずつ、元気になってきた」
送信のボタンを押したあと、しばらく画面を見つめていた。返事は来ないかもしれない。来るとしても、ずっと先かもしれない。それでもいいと思えた。
大切なのは返事ではなかった。長いあいだ、壁に跳ね返るだけだった私の気持ちが、はじめて生きた誰かに向かってまっすぐ届こうとしたこと。その手ごたえだった。
茶をひとくち飲んだ。あたたかかった。
壁の向こうの物音は、今日も響くだろう。けれど私はもう、それを一人では聞いていない。
本日の羅針盤(最終章)
三章にわたって、私たちはひとりの人の夜に寄り添ってきました。最後に残しておきたいのは答えではなく、方向です。
あなたが感じている感覚は、消し去るべき欠陥ではありません。けれど、それを一人で抱え続ける必要もありません。壁の音を、生きた声に。閉じた部屋を、開いた窓に。ひとりの夜を、誰かと分け合える夜に。その小さな一歩は、専門家に電話をかけることかもしれないし、たった一行のメッセージを送ることかもしれない。
どちらも立派な一歩です。
専門機関への相談のご案内
- こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556(お住まいの都道府県・政令指定都市の公的な相談窓口につながります)
- お住まいの地域の 精神保健福祉センター/保健所(電話・来所での相談が可能です)
- かかりつけの医療機関、または心療内科・精神科
※眠れない、消耗が激しいといった状態が続く場合は、早めに専門家へ相談されることをおすすめします。




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