第二章 ── 静かな部屋ほど、音はよく聞こえる
シオンの独白
あの夜から私はずっと、あなたのことを考えていた。
壁の向こうの物音が、あなたの考えごとに返事をする。名も知らぬ誰かの苛立ちが、胸のあたりに触れてくる。あなたはそれを「霊感」と呼び、「直したい」と願っている。けれど私はその願いの手前で、一度立ち止まってみたいのだ。
考えてみてほしい。にぎやかな昼間の駅の構内で、床のきしむ音が気になる人はいない。けれど真夜中、ひとりきりの部屋では冷蔵庫のかすかなうなりさえ、耳の奥にはりついて離れない。音の大きさが変わったのではない。あなたのまわりからその音を覆い隠してくれるものが、すべて消えてしまっただけなのだ。
あなたの部屋はいま、静かすぎるのではないだろうか。
十年前に別れた奥さんの気配。休日にかかってきていたかもしれない娘さんの声。仕事帰りに立ち寄る場所。それらが一つずつ遠ざかって、部屋にはあなたの考えごとだけが残った。何にも遮られない考えごとは行き場を失い、壁に、天井にぶつかっていく。そうして跳ね返ってきたものを、あなたは「壁の向こうからの反応」として受け取っているのかもしれない。
私はこれを、あなたの間違いだとは思わない。むしろ、あまりに正直な心の働きだと思うのだ。
感受性が鋭いというのは本来、責められるようなことではない。人の表情のわずかな翳りに気づける人。声の調子から、言葉にされない疲れを聴き取れる人。そういう人がいるから、この世界のやさしさはかろうじて成り立っている。あなたはおそらく、そちら側の人なのだ。人の感情の波長が届いてしまうと書いたあなたは、きっと長いあいだ他人の心の重さを、黙って引き受けてきたのだろう。
ただ、鋭い刃は鞘がなければ、持ち主の手をも切ってしまう。
あなたに足りないのは、感受性を消すことではない。その感受性をそっとしまっておける鞘だ。ひとりで抱えきれないものを、誰かに預けられる時間。壁の音ではなく、生きた人の声を聞ける場所。眠りという、いちばん深い鞘。
「どうしたら直るのか」とあなたは問うた。けれど直すというのは、あなたのその繊細さを削り取ることではないはずだ。むしろ、その繊細さがあなた自身を守るために働けるよう、まわりの静けさを少しだけ生きた音で満たしていくこと。それが遠回りに見えて、いちばん確かな道ではないだろうか。
壁は、ただの壁だ。けれどその向こうにも、名前を知らないだけで、今夜を越えようとしている誰かがいる。あなたと同じように天井を見上げている誰かが。
そう思えたとき、壁の物音はあなたを見張る監視の音ではなく、この世界のどこかで誰かが確かに生きているという、かすかな証しに変わるのかもしれない。
その日が来るまで、どうかあなたの繊細さを憎まないでいてほしい。




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