【墓じまい・終活】「墓は要らない」と思うあなたへ―石を遺す本当の意味と風の住所

「還りたい」と願う人が、なぜ石を遺すのか ― 墓という名の、置き手紙

私は五十を過ぎた男で、北陸の小さな町で一人、印刷所を営んでいる。妻とは十年前に別れ、子はいない。
先月、父の三回忌で寺へ行った。住職に管理費の話をされながら、香炉の底に溜まった灰をぼんやり見ていた。この墓を守るのはいずれ、私一人になる。そして私が死んだら、この石は誰が守るのか。
正直言えば、私自身は墓など要らないと思っている。人は死ねば土に還り、いつか苔むした山の一部になる。それでいいはずだ。なのになぜ、昔の人はあれほど墓を欲しがったのだろう。
石を遺すことにどんな意味があったのか。無宗教の私にはその「当たり前」が、どうしても飲み込めないのだ。

よりみちナビゲーターの対話

シオン:面白い問いを持ってこられた。「墓が欲しい」――その主語は本当に死ぬ本人だろうか。あなた自身、気づいておられる。石を欲しがったのは逝く者ではなく、残される者のほうかもしれない、と。

サキ:私、その感覚すごく分かるんですよね。うちも義理の両親のお墓があって、年に何度か掃除に行くんです。でも正直に言うと、故人のためというより自分が「行く場所」があることに救われている気がして。手を合わせる相手というより、自分の心の置き場所というか。

ケンゴ:サキの言うことは分かる。ただ、感情の話だけで終わらせると本質を見誤ると思う。日本人が全員、墓を建てるのが当たり前になったのはそう古い話ではない。江戸幕府が寺請制度――寺が戸籍を管理する仕組みを整えたことで、「どこかの寺の檀家である」ことがほぼ義務になった。墓は信仰である以前に、統治の装置だった。

サキ:ケンゴさんの言う制度の話も、なるほどとは思います。ただ――統治のためだけなら四百年も人の心に残らないと思うんですよね。私が墓前で泣いたのは、幕府の都合とは関係のない場所でなので。

ケンゴ:それは否定しない。制度が心を作ることもあれば、心が制度を延命させることもある。私が言いたいのは、あなたが感じている「義務のようだ」という違和感には、ちゃんと歴史的な根拠があるということだ。あなたの感覚は間違っていない。

シオン:(少し間を置いて)ところであなたは、「土に還ればいい」と言われた。私もその考えを美しいと思う。ただ一つだけ。土に還ったあなたを誰かが探しに来たくなったとき――その人はどこへ行けばいいのだろう。墓とは亡き人のためではなく、生きて悲しむ人のための「住所」なのかもしれない。

自分に問いかけるロードマップ

「墓が要らない」と思うとき、それは死後の自分のことを考えているのか、それとも「管理する負担」から自由になりたいのか。この二つは分けて考える必要がありそうです。

あなたが亡くなったあと、あなたを悼む人がいたとして――その人に「手を合わせる場所」を遺さないことは優しさなのか、それとも別の何かなのか。

祖父母や父母の墓を「払い続ける義務」と感じるか、「まだ続いている縁」と感じるのか。同じ石を前にして、その意味はあなたが決められる。

本日の羅針盤

墓は死ぬ人のためではなく、残る人のための置き手紙なのかもしれません。あなたが自分には要らないと思うのは、極めて自然な感覚です。江戸の寺請制度以来、私たちは「墓を持つのが当然」という空気の中で生きてきましたが、それは信仰でも義務でもなく、時代がつくった一つの形にすぎません。

ケンゴの言うように、その違和感には歴史的な根拠があります。
サキの言うように、それでも人が墓前で流す涙は本物です。
そしてシオンの問いのように――土に還るあなたを誰かが探したとき、その人はどこへ向かえばいいのか。

墓を遺すか、遺さないか。その答えは一つではありません。既存の墓の管理については、費用・改葬・墓じまいなど具体的な選択肢があります。お一人で抱え込まず、菩提寺や自治体、あるいは終活の専門窓口へ相談することもご検討ください。心身の負担が大きいと感じるときは、専門機関への相談もご検討ください。

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