古い柱時計と新しいスマートフォンのあいだで
私は五十代の後半、地方の小さな町で古道具の修理を生業にしている。父から継いだ店だ。壊れた椅子の脚を接ぎ、曇った真鍮の取っ手を磨き直して、また誰かの手に渡す。それが私の仕事だ。
先日、二十代の姪が店に立ち寄った。彼女は最新の折りたたみ式の電話を私に見せ、「これ、去年出たばかりなのにもう型落ちなんだよ」と笑った。悪気はない。ただ、私の手のなかにはちょうどそのとき、四代にわたって使われてきたという柱時計があった。振り子は止まっていたが、木の肌には人の掌の脂が沁みて、飴色に光っていた。
その二つを見比べたとき、胸のあたりに小さな引っかかりが残った。私は古いものを直して暮らしている。けれど町を歩けば更地が増え、新しい家が建ち、車は数年で入れ替わっている。
私のやっていることは、時代に取り残された懐古趣味なのだろうか。それともまだ、何か意味があるのだろうか。どうもそこがわからない。日本という国は、なぜこうも新しいものばかりを求め、古いものに腰を据えないのだろう。それとも私の見立てのほうが古いのだろうか。
よりみちナビゲーターの対話
シオン:あなたの手のなかにあった、その柱時計のことを考えている。振り子は止まっていた、と書かれていた。止まった時計は時を告げない。けれど木肌(きはだ)に沁みた掌の脂は、四代ぶんの時間をたしかに留めている。あなたが感じた引っかかりは「新旧」の問題ではなく、「時間をどこに宿すか」という問いだったのかもしれない。
ケンゴ:シオンの言うことは分かる。ただ、私はもう少し地面の話をしたい。日本人が新しさを好むのには理屈がある。木と紙の家は腐りやすく、地震も火事も多い。だから「古いものを守る」より「新しく建て直すほうが安全で合理的」だった。戦後は税制まで、数年で家の価値がゼロになるよう設計されていた。つまりこれは国民性というより、制度が作った習慣だ。
サキ:ケンゴさんの整理、すごく腑に落ちますね。ただ、私はこの方の手の話を聞いていたいんです。制度がどうであれ、この方は毎朝、誰かの壊れたものを直している。真鍮の取っ手を磨く指先には、制度では測れない手応えがあるはずです。それを「懐古趣味かもしれない」と迷っているのが、私は少し切ないんです。
ケンゴ:サキの感覚を否定はしない。ただ一つ、事実として付け加えたいことがある。いまの日本は経済的な余裕がなくなって、むしろ「古いものを賢く使う」方向へ強制的に動き始めている。
カーシェア、中古住宅のリノベーション、良質な中古を選んで手を入れる暮らし方。これは懐古ではなく、次の合理だ。だからこの方の仕事は時代遅れどころか、時代の先を歩いている可能性がある。
サキ:……ああ、それは嬉しい指摘ですね。手を入れて長く使う文化が、もう一度戻ってきているという。
シオン:ところであなたは、「私の見立てのほうが古いのだろうか」と書かれた。この問いこそ、あなたが古いものを直す人だからこそ立てられた問いではないだろうか。新しいものだけを追う人は、そもそも「古さ」を疑わない。伊勢の社は二十年ごとに建て替えられ、けれど同じ形を千三百年伝えている。あれは新しさか、古さか。おそらく、どちらでもない。「新しくし続けることで、古いものを永らえさせる」という第三の道だ。あなたの手も、たぶんその道の上にある。
自分に問いかけるロードマップ
- 私が本当に迷っているのは「新旧どちらが正しい」なのか、それとも「自分の仕事に意味があるか」なのか。問いをすり替えていないだろうか。
- 「古いものに価値を見出す文化がない」と嘆くとき、自分がその文化を町のなかで細々と灯し続けている当事者であることを、勘定に入れているだろうか。
- 新しさを求める動きと古さを慈しむ動きは、本当に対立しているのか。同じ「大切にしたい」という気持ちの、形を変えた表れではないのか。
本日の羅針盤
ケンゴは日本の「新しさ好き」を気候・災害・制度が作った合理として解き明かし、いまはその合理が「長く使う」方向へ反転しつつあると示しました。
サキは制度の話を超えて、あなたの指先に残る手応えそのものに価値を見ました。
そしてシオンが問うたのは、新旧の勝ち負けではなく、時間をどこに宿すかという別の座標です。止まった柱時計にも、四代ぶんの時間が沁みていた。あなたの仕事はそのようにして、時間を次へ手渡す仕事なのかもしれません。
答えを一つに絞る必要はないでしょう。あなたが「古いのだろうか」と自らを疑えること、それ自体が古いものと新しいものの両方を見渡せる場所に立っている証拠だからです。





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