第四章 彼の側から見た景色 ―― 「LINEしないで」と打ったあの夜のこと(フィクション)
※本章は、相談者からの情報をもとに、鬱状態にある人の内面で起こりやすい揺れを「彼」というキャラクターに託して描いたフィクションです。実在する彼の心理を断定的に描写するものではありません。
カーテンを閉めた部屋で、何度目かわからない寝返りを打つ。時計を見る気力もない。たぶん、夜中の三時か四時。窓の外で、誰かの自転車のライトが一瞬だけ天井を照らして、消える。
枕元のスマホが、小さく光った。「おやすみ」。彼女からのLINE。いつもの優しい、何の悪意もないメッセージ。
俺は画面を見つめたまま、何も打てなかった。
「おやすみ」と返せばいい。たった四文字。指先を二、三回動かすだけ。それなのにその四文字が、ものすごく重たい鉄の塊みたいに感じる。返さなきゃ。返さなきゃ彼女が悲しむ。返さなきゃ、俺は最低な男だ。返さなきゃ。返さなきゃ。頭の中で同じ言葉が反響して、息が浅くなっていく。
気づいたら、画面を伏せていた。返せなかった。明日の朝、起きたら返そう。そう思って目を閉じる。でも、朝になっても指は動かなかった。「おやすみ」のあとに「おはよう」も来ていて、画面の上には未読の優しさが、二段重ねで積み上がっていた。
「LINEしないで」と打つまでの数日間
彼女に会った日のことは覚えている。久しぶりに笑った。彼女の笑い声を聞きながら、「ああ、俺、まだこの人のこと好きだな」って、ちゃんと思った。それは嘘じゃない。
でも、家に帰ってドアを閉めた瞬間、どっと崩れた。会っている間、必死で「いつもの俺」を演じていたことに自分でも気づいていなかった。鎧を脱いだ瞬間、中身が空っぽだった。
その夜から、彼女のLINEが怖くなった。怖い、っていうのは正確じゃない。彼女のことは大好きだ。でも、画面の通知音が鳴るたびに心臓がぎゅっとなる。「期待されている」「応えなきゃいけない」「がっかりさせたくない」――その思考の渦が止まらない。
本当は、彼女は何も期待していない。何も要求していない。「おはよう」と「おやすみ」を、ただ送ってくれているだけ。それを「責められている」と感じてしまう自分が、心底情けなかった。
二日間、画面を見られなかった。三日目の夜中、薬の効きが悪くて眠れなくて、ベッドの上で天井を見ながらふいに思った。「このまま俺が黙っていたら、彼女は不安になる。それは違う。ちゃんと言わなきゃ」――そう思って震える指で打ったのが、あの一文だった。
「とうぶんラインしないで。返さなきゃって迫られてる気がするしストレスなんだよね…」
送信ボタンを押した瞬間、自分が何か取り返しのつかないことをした気がして、スマホを布団の中に押し込んだ。
桜の写真を、なぜ送ったのか
二日後の朝、ベランダに出た。彼女がくれた小さな桜の盆栽。前の日まで、つぼみが膨らんでいるのを見ていた。それが朝の光の中で、ぱっと開いていた。
満開だった。
気づいたら、写真を撮っていた。気づいたら、彼女のトーク画面を開いていた。「LINEしないで」と自分で送ったその画面に、自分から写真を送ろうとしている。
矛盾している。わかっている。でもこの花を、彼女に見せたかった。「あなたがくれたものが、ちゃんと咲いたよ」って、伝えたかった。それが自分にできる、たった一つの感謝の伝え方だった。
「満開になったよ」とだけ書いて、送った。
すぐに返事が来た。「キレイに咲いたね♪私のも満開になったよ」。
このメッセージを、何度読み返したかわからない。責めていない。問い詰めていない。「なんで連絡くれないの」も「会いたい」もない。ただ、自分の盆栽も満開になったよと教えてくれただけ。その短さの中に、彼女の全部が入っていた。
俺はスタンプを、一つだけ送った。それ以上、言葉が出てこなかった。「ありがとう」って打とうとして、消した。「ごめん」って打とうとして、消した。何を打っても、彼女に対して薄っぺらく感じた。
結局、スタンプ一個。それが今のところ俺が彼女に送れた、最後の言葉だ。
過去の、古い部屋の話
シオン:(彼の内面の深い層から、静かに語られる声として)
彼の中には、子どもの頃に閉じ込められていた小さな部屋があるのかもしれません。安全であるはずの場所が安全ではなかった。「優しい言葉」のあとに突然「裏切り」が来る経験を、繰り返し刻まれてきた。
大人になってから、その部屋のドアは閉じたはずだった。けれど心が弱ったとき、そのドアは勝手に開く。「優しくされる」という体験が、なぜか「次に何かが壊れる予感」と結びついてしまう。これは彼の意志ではなく、長い時間をかけて学習された心の防衛反応なのです。
前の恋人からの裏切りも、その古い部屋に新しい鍵をかけてしまった。「やっぱり、深く愛されるとろくなことがない」――そういう声が、症状が悪化したときだけ大きくなる。普段は聞こえないのに、夜中だけはっきり聞こえる。
彼が彼女を「LINEしないで」と遠ざけたのは、彼女が嫌いだからではない。彼女のことが好きだからこそ、自分の中の古い部屋に彼女を巻き込みたくなかったのではないだろうか。「俺といたらまた壊れる。彼女まで壊したくない」――その恐れが、防衛として現れた。
沈黙の中で、彼が考えていること
あれから、彼女からの連絡はない。当たり前だ。自分で「しないで」って言ったんだから。
でも、毎日のようにトーク画面を開いている。「キレイに咲いたね♪」のメッセージを、何度も読む。返事を打とうとして、消す。打とうとして、消す。「元気にしてる?」って聞きたい。「ごめん」って言いたい。「会いたい」とも思う。でも、どれも今の自分が言っていい言葉じゃない気がする。
薬は続けている。少しずつ、夜の眠りが戻ってきた日もある。でも、波がある。良くなったと思った翌日に、また落ちる。その繰り返し。「治った」と言える日が本当に来るのか、自分でもわからない。
彼女に連絡したいと、毎日思う。でも、こんな不安定な自分のまま連絡したら、また同じことを繰り返す。良くなった瞬間を喜ばせて、悪くなった瞬間に突き放す。それを彼女にもう一度させたくない。
だから、待っている。「ちゃんと話せる自分」になるまで、待っている。それが、何ヶ月後なのかもっと先なのか、わからないけれど。
彼女がもし他の誰かと幸せになっていたら、それでもいいと思う。嘘だ。本当はよくない。胸が引き裂かれる。でも、自分にそれを願う資格はないと思っている。
四人からのメッセージ
アキ:……ここまで書いてきて、私もちょっと胸が苦しくなった。これは彼そのものの心の中じゃない、フィクションだよ。でもね、鬱の真ん中にいる人って「好きだから連絡できない」「大切だから遠ざける」っていう、外からは矛盾に見える動きをすることが本当にあるんだ。あなたが受け取った冷たさは、冷たさじゃなかった可能性が高い。それだけは、伝えたい。
サキ:彼が今こうした状態にいるのだとしたら、彼のほうも同じくらい、いえ、もしかしたらそれ以上に苦しんでいるのかもしれません。それはあなたが彼に何かをすべきだという話ではなくて、「沈黙の向こう側にも、あなたを想う心がある可能性がある」ということを、覚えておいてほしいんです。確証はありません。でも、可能性として、ある。
ケンゴ:ただし、これも言っておく。彼の苦しみが本物だとしても、君が無限に待つ理由にはならない。彼には彼の回復のペースがあり、君には君の人生のペースがある。この二つは、別の時計で動いている。彼の時計に、君の時計を合わせ続ける必要はない。これは冷たい話ではなく、お互いを尊重するということだ。
シオン:彼の中の古い部屋のドアを開ける鍵を、あなたが持っているわけではありません。鍵を持っているのは彼自身と、彼の主治医、そして時間そのもの。あなたができるのはドアの外で、自分の生活の灯りを消さずにいることだけ。あなたが自分の灯りを大切にしていることが、いつか彼が部屋から出てきたとき、外の世界がまだ温かいことを示す唯一の証拠になるのです。
本章の結論
本質的な結論:彼の沈黙はあなたへの拒絶ではなく、「大切だからこそ、今の自分を見せたくない」という不器用な誠実さである可能性があります。
鬱の真ん中にいる人にとって、優しさは時に「責められている」と変換され、好意は「巻き込みたくない恐れ」に変わります。
それは彼の意志ではなく、症状と過去の傷が組み合わさった、心の自動反応です。あなたが受け取った「冷たいLINE」と、その後に届いた「桜の写真」は、矛盾していません。同じ気持ちの、表と裏です。
ただしこれは、「だから無限に待つべき」という意味ではありません。彼の時計とあなたの時計は別物です。彼の苦しみを想像する優しさを持ちながら、あなた自身の生活の灯りを消さないでください。その灯りこそが、いつか彼が戻ってきたときに、あるいは戻ってこなかったときに、あなた自身を支える最後の確かなものです。
最後に
本章は、相談者の方に「彼にもこういう内側があるかもしれない」という想像のための材料をお渡しするためのフィクションです。実在の彼の心理を断定するものでも、特定の診断を下すものでもありません。彼の状態を本当に理解できるのは彼自身と、彼の主治医だけです。
これを読んで、「やっぱり待ち続けなきゃ」と思いすぎないでください。彼を想う優しさと、自分を大切にする決意は両立します。むしろ両立させることでしか、あなたも彼も、本当のところ救われないのだと思います。
ご自身の心が疲れたときは、各自治体の精神保健福祉センターやこころの健康相談統一ダイヤル(0570-064-556)に、あなた自身のために相談してください。彼の話としてではなく、「最近、眠れないんです」「気持ちが沈むんです」と、あなたの言葉で話していい場所です。
桜は散っても、また来年咲きます。葉桜の今をあなた自身の季節として、大切に過ごしてください。



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