第二章 ―― 不運の家計簿をつけてみる
あの対話を読んでから、ちょっとだけ試してみたことがある。
サキさんが言ってた「今日、何ごともなく済んだこと」を、寝る前に三つだけ書き出すっていうやつ。最初は「そんなの効果あるの」って半信半疑だったんだけど。
一日目。「電車、遅れなかった」「夕飯のカレー、焦げなかった」「子どもが宿題を自分から出した」。書いてみて、なんか拍子抜けした。こんな小さいことでいいのって。
でも三日くらい続けたとき、ふと気づいたんです。私、不運のことは何も書いてないやって。いや、不運がなかったわけじゃない。レジで小銭をぶちまけたし、洗濯物を干した直後に小雨がぱらついた。でも、それを書こうという気にならなかった。
今までの私だったら、絶対そっちを覚えてた。「ほら、また」って。
不思議なのは出来事の量は変わってないってこと。変わったのは、私がどっちにペンを向けるか、それだけ。なんだかずるい仕組みみたいで、ちょっと笑っちゃいました。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:続きを聞かせていただいて、私、嬉しくなってしまって。「夕飯のカレーが焦げなかった」って、本当にそうなんですよ。焦がした日のことは一生覚えてるのに、無事だった日は流れていく。それを書き留めたというのが大きいと思うんです。
アキ:「どっちにペンを向けるか」って表現、いいなあ。私、すごく腑に落ちた。同じスマホでも、通知を全部オンにしてると一日中ビクビクするけど、切ると静かになるじゃん?あれと一緒だよね。出来事は鳴ってるけど、どれを拾うか選んでるっていう。
ケンゴ:注意の配分の話だな。それは認知行動の領域でも知られている。人は注意を向けた対象を、より頻繁に「ある」と認識する。赤い車を意識した日は、街じゅうが赤い車だらけに見える。彼女がやったのはその照準を、意図的に動かす訓練だ。地味だが、よく効く。
サキ:そうですね。ただ、私はひとつだけ、念を押しておきたくて──。
ケンゴ:というと。
サキ:この「いいことを書く」習慣が、いつのまにか「悪いことは書いちゃいけない」になるとしんどくなるんです。私、完璧主義で一度それをやって潰れかけたことがあって。「ポジティブでいなきゃ」が新しいノルマになる。小銭をぶちまけた日は、ぶちまけたって書いていいんですよ。
アキ:あー、わかる。「前向きでいなきゃ」が義務になると、それはそれで地獄だよね。落ち込んじゃいけないって思うと、落ち込んでる自分まで責めることになる。
ケンゴ:……それは私が「訓練」と言い切ったところに対する、いい補足だと思う。訓練という言葉には、できなかった日を「失敗」とみなす響きがある。そこは撤回しよう。義務ではなく、ただ「もう一方の窓を開けておく」程度がいい。
サキ:はい。窓は、開けても閉めてもいいんです。雨の日は閉めたっていい。
自分に問いかけるロードマップ
うまくいき始めたときこそ、こう問いかけてみてください。
「私はいま、自分に新しいルールを課していないだろうか」
良い習慣がいつのまにか、「守らなければならない掟」に変わることがあります。三つ書けなかった日があっても、それは後退ではありません。
そしてもうひとつ。「不運を書かない」のと「不運をなかったことにする」のは別ものです。小銭をぶちまけた日は、心の中で「今日はぶちまけた日」と認めてあげる。認めたうえで、ペンは別のほうへ向ける。隠すのではなく、置き場所を変えるだけ。
本日の羅針盤
ケンゴが指摘したとおり、注意の照準を動かすことには確かな手応えがあります。けれどサキが釘を刺したように、それが新たな「ねばならない」になった瞬間、また別の苦しさが生まれます。
あなたが「ずるい仕組みみたいで笑っちゃった」と書けたこと。ここにいちばんの健全さがあります。仕組みを真剣に守るのではなく、笑いながら使う。義務ではなく、遊びのように。
雨の休日はこれからも巡ってくるでしょう。傘がまた開かない日も、きっとある。そのときは「今日はそういう日」と書いて、ページをめくる。あなたはもう、その手つきを知っています。
もし、ノートを開く気力さえ湧かない日が続くようなら、それは習慣でどうにかする段階を越えているかもしれません。そんなときは無理をせず、専門機関への相談もご検討ください。窓を開ける手伝いを誰かにお願いしてもいいのです。




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