最終章:一年後の朝、あなたが炊飯器のブザーを聞きながら思い出すこと
三社目の面接の朝、息子をベビーカーに乗せて、保育園の一時預かりに送っていった。門のところで手を振ったとき、息子は泣かなかった。泣かなかったことに、私のほうが少し泣きそうになった。
面接室で、例の質問が来た。「前職を辞めてから、何をされていましたか」。心の中で一度、「これは商談だ」と言ってから、口を開いた。声は、思っていたより普通に出た。一分で話し終わったとき、面接官の人がメモを取る手を止めて、「預け先、整えてこられたんですね」と言った。その一言で、私は今日ここに来てよかった、と思った。
結果は、一週間後に届く。
サキ:三ヶ月後のあなたへ
サキ:三ヶ月後のあなたは、今のあなたが想像しているよりもずっと普通の顔をして朝を過ごしているはずです。受かっているかもしれないし、まだ次を探しているかもしれない。どちらであっても、「無職でごめんなさい」と頭を下げそうになる回数は、確実に減っています。
それは仕事が見つかったから減るのではなくて、自分の一年を一分で説明できるようになったから減るんですよね。説明できる人は、もう恥じていません。恥じている人は、説明する前に口ごもります。そういう順番です。
サキ:もし三ヶ月後、まだ決まっていなくても落ち込まないでください。書類を十通以上出したあなたは、もう最初の二社で泣いていたあなたとは別の人です。同じ人に見えても面接室のドアを開ける前の呼吸が、確実に違うはずです。
ケンゴ:半年後のあなたへ
ケンゴ:半年後、あなたはおそらくどこかの職場で働いているだろう。そして最初の一ヶ月は、想像以上にきついと思う。これは脅しではなく、実務的な予告だ。
五年のブランクのあと、一歳児を抱えながらの復帰初月は「仕事の勘を取り戻す負荷」と「保育園からの呼び出し」と「家事の再配分」が同時に来る。
ほとんどの復職者がこの一ヶ月目に、「やっぱり私には無理かもしれない」と一度は思う。思うのが正常値だ、と先に伝えておく。
ケンゴ:この時期に大事なのは、自分を責めないことよりも「三ヶ月は判定を保留する」と決めておくことだ。一ヶ月目の感情で進退を判断しない。これは根性論ではなく、単に脳と身体が新しい生活リズムに適応するのにそれくらいの時間が要る、という話だ。
三ヶ月を越えると、景色は変わる。保育園のお迎え動線にショートカットを見つけ、同僚の顔と名前が一致し、夫との家事分担が「話し合い」ではなく「運用」になる。
ここまで来たら半年後のあなたは、もう一度「私、やれてる」と小さく思える日が来ると思う。
アキ:一年後のあなたへ
アキ:一年後ね。たぶん一番面白いの、ここなの。
一年後のあなたは息子が二歳になってて、言葉が少し出始めてて、職場では「子育てしながら働いてるお母さん」のポジションに完全に収まってる。
そう、あなたがかつて駅のホームで眩しく見ていた、あの人たちの側にいるんだよ。
アキ:でね、ここが大事なんだけど、一年後のあなたはその立場から今の専業主婦の誰かを見下したりしないの。絶対にしない。だって、あなたは一番よく知ってるから。「ただ家にいた」と見えるあの一年が、どれだけ全身を使った仕事だったかを。
だからもし一年後、夫の知り合いの別の誰かが「いま専業主婦で……」と口ごもっているのを見かけたら、あなたはきっと、さらっとこう言うんだよ。「私もこの春までそうでしたよ」って。その一言に今のあなたの辛さ全部が、ちゃんと成仏する瞬間があるから。
シオン:時間の話を、最後に少しだけ
シオン:三ヶ月、半年、一年。皆さんが区切ってくださった時間軸は、どれも確かなものだと思います。ただ私は一つだけ、もう少し長い物差しのことをお話ししてもよいでしょうか。
シオン:十年後、あなたの息子さんが小学校の高学年になる頃、あなたはおそらく今のこの一年間のことを、ほとんど「恥ずかしさ」の文脈では思い出さなくなっているかもしれません。代わりに思い出すのは、離乳食を刻んでいた台所の匂いや、保育園の門で初めて息子が泣かなかった朝の、少し冷たい空気のほうなのではないでしょうか。
恥ずかしさはあなたの身体に今だけ張り付いている霜のようなもので、時間が経てば自然に溶けていくものです。溶けたあとに残るのは、「あの一年、私は確かに息子と一緒にいた」という、揺るがない事実だけです。
シオン:今のあなたが「恥」と呼んでいるものの正体は、もしかすると「この時間を、ちゃんと生きている自分をまだ自分で認められていない」という、認識の遅延なのかもしれません。時間のほうが、あなたよりも少し先にそれを知っています。あなたの認識が追いつくのを、十年後の朝の空気が静かに待っていてくれているのではないでしょうか。
編集長より、最後に
四章にわたって、あなたのお話を預からせていただきました。最初のメールの末尾、「乱文で申し訳ありません」という一文を、私たちは何度も読み返しました。あの一文にこそ、あなたが今まで自分をどう扱ってきたかが、そのまま表れていたからです。
あなたの文章は、乱れていませんでした。むしろ、自分の苦しさを順序立てて書ける人の文章でした。自分の状態を言葉にできる人は、自分を立て直せる人です。今は信じられなくても、覚えておいてください。
最後に、この連載全体の結論を一行だけ残します。
【連載の結論】
あなたが恥じてきた一年は「働いていなかった一年」ではなく、「一歳になる子と、二度と戻らない時間を過ごした一年」でした。そしてこれからあなたが踏み出す一歩は、「恥を取り返すため」ではなく、「自分の次の季節を、自分で選ぶため」の一歩です。
落ちても、数えなくていい。出した回数だけ、ノートに正の字で。
面接では、過去を短く、未来を具体的に。
一ヶ月目は責めない、三ヶ月は判定を保留。
そして十年後、あなたは今日のこの相談文を、少し微笑んで読み返します。
どうか、炊飯器のブザーが鳴る朝を、もう一度「自分の朝」として迎えてください。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。またいつでも、このページに帰ってきてください。




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