「妻がいちばん」と言えない夜に──十年来の幼なじみと、結婚三年目のあいだで揺れる心の整理術

番外編 包丁の音の向こう側で──妻が半年のあいだに考えていたこと

私は地方都市の小さな図書館で働いている、三十代前半の女性だ。夫とは取引先の打ち合わせで知り合って、四年付き合って結婚した。もうすぐ三年になる。子どもはまだいない。

夫は自分で設計事務所をやっている。図面を描いているときの背中が、いちばん夫らしいと私は思っている。話しかけてもしばらく気づかない、あの集中の仕方が好きだ。私の仕事の話──返却された絵本のページに子どもが描いたらしい小さな落書きがあった、というような──を、笑いながら聞いてくれる人でもある。

夫に長い付き合いの幼なじみの女性がいることは、結婚前から知っていた。何度か、共通の食事会で会ったこともある。気持ちのいい人だった。聡明で、夫と話しているときの夫の表情が私と話しているときとは少し違う種類のやわらかさを持っていることも、見ていてわかった。

その違いに嫉妬したかと聞かれれば、たぶんしていなかったと思う。人にはいろんな種類のやわらかさがあって、相手によって出る面が違うのは当たり前のことだ。私だって、大学時代の友人と会うときの自分と夫と二人でいるときの自分は、たぶん少し違う。

ただ、半年ほど前から夫の様子が少しずつ変わった。それを私は気づいていた。気づいていながら長いあいだ、何も言わなかった。

編集部の四人が、妻の独白に耳を傾けた

アキ:……うん。これ、読んでて思ったけど、妻のほうもちゃんと「気づいてた」んだよね。「気づいてないから穏やかでいられた」んじゃなくて、「気づいていたうえで、何も言わない」を選んでいた。これはすごく大きな違いだよ。

サキ:そうですね。「穏やかな人」と「踏み込まないことを選んでいる人」は、外から見ると同じに見えますけれど、内側で起きていることはまったく違うんですよね。

ケンゴ:本編で私たちは、妻を「咎めない人」「信頼してくれる人」として描いてきた。だがこの独白を読むと、妻はもっと能動的な選択者だったことが見えてくる。これは本編の見立てに対する、健やかな修正だと思うが。

夫の様子が変わったと最初に気づいたのは、ある日の食卓だった。私が「今度の連休、どこか行く?」と聞いたら、夫が一瞬、まるで遠い場所から呼び戻されたような顔で「あ、うん、考えとくね」と答えた。その「あ、うん」のあいだのほんの半秒の不在が、私の中で小さな印になった。

それから夫はよく、夜遅くまで事務所の二階にこもるようになった。仕事が忙しいのだろうと、最初は思っていた。けれど二階から降りてきた夫の足音が、いつもより静かなことに気づいた。仕事で疲れて降りてくる足音と、何か別のもので疲れて降りてくる足音は、長く一緒にいると聞き分けられるようになる。

私は夫に、「何かあった?」か聞かなかった。何度か聞こうとして、やめた。やめた理由はひとつではない。

ひとつは、聞いたところで夫が正直に話せる準備がまだできていないだろう、と思ったこと。早すぎる問いは、相手を追い詰めるだけだ。私は図書館で、本を返しに来た子どもが「実は……」と言いかけて、結局言えずに帰っていく場面を何度も見てきた。言葉が出てくるには、時間という土壌がいる。

もうひとつは、私のほうにも聞く準備ができていなかったこと。もし夫が、私の予想していたことを──たとえば、幼なじみの彼女のことを──話し始めたとして、私はそれをどんな顔で受け止めればいいのか、まだ自分の中で決まっていなかった。決まらないまま聞いてしまえば、私は反射的に何かを言ってしまうだろう。その反射の言葉が、私たちの結婚に取り返しのつかない傷をつけるかもしれない。だから、聞かなかった。

聞かないあいだ私は何をしていたかというと、自分のことをもう一度、考え直していた。

気づきの場所──妻が、妻自身に問いを向けていた時間

サキ:……この、「自分のことを考え直していた」って、ものすごく大事な一文ですね。本編で私たちは夫の「揺れ」を中心に話を組み立てていましたが、妻もまた同じ半年のあいだに、自分の輪郭を見直していたんです。

アキ:うん。これさ、夫婦ってたぶんこういうことなんだよね。片方が揺れているとき、もう片方も目に見えない場所で自分の何かを点検してる。表面上は何も起きていないように見えても、内側では二人とも動いている。

ケンゴ:その通りだろう。私が本編で「揺れている側が、安定している側を加害する関係になる」と言ったが、あれは表面だけ見ていた言い方だったかもしれない。実際には「安定して見える側」も、内側では同じくらいの揺れを抱えている、それがたぶん夫婦というものの正体だ。

私が考え直していたのは、こんなことだった。

私は夫を選んだとき、本当に「この人がいちばん」と思って選んだのだろうか。それとも、「この人なら、いちばんを争わなくていい」と思って選んだのだろうか。

夫と出会った頃、私には長く付き合っていた人がいた。大学時代から五年付き合った人で、いろいろあって別れた。別れたあと、私は誰かといちばんを争うのに少し疲れていた。誰かにとっての一位でありたいと思うこと自体に、疲れていた。

夫は私を、一位として扱ってくれる人だった。それは今でも、本当だと思う。けれど私のほうは、夫を「一位として選んだ」というよりも、「一位を争わなくていい場所として選んだ」のかもしれないと、この半年で気づき始めた。

これは夫への裏切りだろうか。私にはわからない。ただ、私の中にも私だけが知っている、選ばなかった道がある。あの大学時代の人ともし別れていなかったら、私はいまどこに立っていただろうと思う夜が、年に数回ある。

だから夫の中に選ばなかった道があるとしても、私はそれを「許せない」とは、たぶん言えない。私の中にも同じ種類のものがあるからだ。

ただ──ここからが、難しい話なのだけれど──私の中の「選ばなかった道」は、夫の中の「選ばなかった道」よりもずっと静かだ。年に数回、夜にふと思い出すだけで、それ以上には私の生活に染み出してこない。

夫の場合はたぶん、染み出してきている。事務所の二階の足音の静けさは、たぶん染み出してきている音だ。

これが私がいま、夫に対してほんの少しだけ不公平を感じている部分だ。「選ばなかった道」を持っていることは、私たち二人とも同じだ。けれどそれを生活に染み出させないでいる労力を私だけが払っているように、ときどき感じる。

四人の対話──「均衡」と「不公平」のあいだで

アキ:……これ、めっちゃ深いね。「選ばなかった道を持っているのは同じ。でも、それを生活に染み出させないでいる労力を、私だけが払っている」。この思い、たぶん多くの夫婦のどちらか側が抱えてる感覚だと思う。

サキ:そうなんです。夫婦のなかで「揺れていない側」というのは、たいてい揺れを生活に染み出させないための労力を、見えないところで払っている側なんですよね。だからこそ、「揺れている側」がその労力に気づかないまま「自分だけが苦しい」と語り始めると、関係はゆっくりと傷んでいきます。

ケンゴ:これは、私が本編で見落としていた論点だ。私は「揺れているなら、動け」と言い続けてきた。だが、揺れているなら、まず揺れていない側が払ってきた労力を見ろと言うほうが、順序として正しかったかもしれない。

アキ:ケンゴさん、それ率直に認められるの、本当にすごいと思うよ。

ケンゴ:からかうのは構わないが、これは誰の人生にも応用される話だ。「自分が苦しい」という感覚は本物だ。だが、その苦しさが相手の払ってきた労力の上に成り立っているかもしれないという想像力を持てるかどうかで、その後の関係はまったく違うものになる。

もしいつか、夫が私に何かを話そうとする日が来たら、私はこう言いたい。

「私にも年に数回、夜に思い出す人がいるよ」と。

これは夫を許すための言葉ではない。夫を「同じ場所」に引きずり下ろすための言葉でもない。ただ、私たちは二人とも、同じ種類の何かを抱えて、それでも一緒にいることを選んできたという事実を、テーブルの上に並べたいということだ。

そのうえで私はたぶん、こう聞く。「あなたの中のその人は、生活に、のくらい染み出してきているの?」と。

これは責める質問ではなく、地図を描き直すための質問だ。染み出しが強いなら、二人でその水位を下げる工夫を考える。染み出しが弱まってきているなら、私はそれを信頼する。

もし、夫がその質問に正直に答えてくれたなら──私はそれで十分だと思っている。

「いちばんかどうか」を、私はもう争いたくない。「いちばんを争わなくていい場所」として選んだ結婚を、私はいちばんを争う場所に変えたくない。ただ、「お互いの揺れを生活に染み出させないでいる労力を半分ずつ払う場所」になってくれたら、それで十分だ。

シオンからの、短い言葉

シオン:妻の独白を読みながら、思っていた。
夫婦というものは、もしかすると「お互いの選ばなかった道を、お互いの中に静かに置いておくこと」を、長い時間をかけて練習していく場所なのかもしれない。
選ばなかった道を消そうとすると、関係は硬くなる。選ばなかった道を生活に染み出させすぎると、関係は崩れる。そのあいだで、染み出さない程度に、しかしなかったことにはしない程度に、二人で水位を調整しあう。
それはたぶん、結婚という制度が本来引き受けるべきだった、いちばん地味でいちばん本質的な仕事なのではないだろうか。

番外編の小さな結論──「揺れている側」と「揺れていない側」は、存在しない

本編で私たちは夫を「揺れている人」として描き、妻を「穏やかで、信頼してくれている人」として描いてきた。しかし番外編で見えてきたのは、妻もまた同じ半年のあいだ、別の場所で、別の種類の問いと向き合っていたということだ。

「揺れている側」と「揺れていない側」は、夫婦のなかには本当は存在しない。いるのは「揺れを生活に染み出させている側」と、「揺れを生活に染み出させないための労力を払っている側」だ。そしてその役割は、半年単位、一年単位で入れ替わることがある。

もし、夫がいつか妻と対話の時間を持つことになったとき──本編の第三章で示した「お互いの、見えていなかった部分を並べていく場」としての対話を持つとき──夫がまず差し出すべき言葉は「ごめん」でも「実は」でもなく、「君のほうはこの半年、どうだった?」という、シンプルな問いなのかもしれない。

その問いから始まる対話だけが、夫婦を本当の意味で「描き直す」場所にしてくれる。

そしてもし、この番外編を読んでいる方の中に「揺れを生活に染み出させないための労力を、自分ばかりが払っている」と感じている方がいたら──その労力は見えないけれど、確かに存在している。
誰にも見えていなくても、自分だけは自分のその労力を、正当に評価してあげてほしい。一人で抱えるのが難しくなったときは、夫婦カウンセリングや個人カウンセリングといった利用できる場所の力を借りていい。それは関係を諦めることではなく、関係をもう少し公平な場所に置き直すための、実用的な方法のひとつだ。

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