「昔のように感動できない」は心が麻痺したから?手間と時間を買い戻す新習慣

エピローグ 押し入れの上段

あれから三か月が経ちました。

結局、私がやったことは二つだけです。帰りのバスでスマホを開かない日を、週に二日つくりました。もう一つ、駅前の書店で写真集を一冊買いました。三千八百円もして、レジで少し迷いました。北海道の漁港を、二十年かけて撮った人の本です。

一晩で見終えるつもりでした。ところが六ページ目で止まりました。何が写っているのかよく分からない一枚だったのです。港の朝で、人も船もほとんど写っていない。ただ、コンクリートが濡れていました。うまいのかどうかも分かりません。それなのに私はその見開きを、たぶん十分近く見ていました。

十分です。三か月前の私が一秒に十枚めくっていたことを思うと、笑ってしまいます。

押し入れの上段から、父のカメラを下ろしました。電池は液漏れしていて、フィルムの入れ方も忘れていました。修理に出したら一万四千円だと言われて、また少し迷って、けっきょく出しました。まだ一枚も撮っていません。撮る予定もありません。ただ、机の上に置いてあります。

感受性が戻ったのかどうかは、正直分かりません。ただ、きれいだねで終わらせない見方があることだけは、思い出しました。三千八百円と一万四千円で買い戻したのは、たぶんそれです。

ケンゴ:報告をありがとう。私が言いたかったことは、ほぼこの独白に書かれている。付け加えるなら一つだけ。あなたが十分も止まったのはうまい写真の前ではなく、分からない写真の前だった。それが答えだと思う。上手さは判定できる。判定できるものは、心を動かさない。

アキ:私は机の上に置いてあるって一行が、いちばん好きだな。撮らなくてもいいんだよ。押し入れの上段から下ろした、それだけで全然違うから。

シオン:濡れたコンクリートの前で十分立っていたという。その十分のあいだ、あなたは何も生み出していないし、誰の役にも立っていない。世の中の物差しでは、まったくの無駄だ。けれどあの日の床屋の待合も、同じ種類の無駄だったかもしれない。無駄がなくなった暮らしから先に消えるのは、感動のほうなのだろう。

編集長:本日はここまでです。感動が減ったと感じている方の多くは、感じる力を失ったのではなく、感じるための手間と時間を生活の中から削ってしまっただけかもしれません。無料で無限に見られる時代に、あえて三千八百円を払う。その面倒くささと不合理こそが、かつて七百円の月刊誌が肩代わりしてくれていたものだったかもしれません。

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