「昔のように感動できない」は心が麻痺したから?手間と時間を買い戻す新習慣

第三章 羅針盤

検品していると言われたとき、正直、少しむっとしました。でも今日、部品を弾きながら気づいたのです。私は写真を見るとき、いつのまにか「どこがうまいか」を探していました。構図がいい。光の入れ方がいい。うまいね、はい次。傷を探すのとまったく同じ手つきでした。

鮭の写真は、うまいとは思わなかった気がします。ただ、あの川がそこにあるというだけの一枚でした。

自分に問いかけるロードマップ

ケンゴ:問いを四つ用意した。答えを出さなくていい。自分がどこで手が止まるかを見てほしい。

  1. あなたが一枚の写真の前に一分以上とどまったのはいつか。それは画面の中だったか、それとも紙だったか。
  2. スマホを開くときあなたは写真を見たいのか、それとも指を動かして時間を埋めたいのか。この二つはまったく別の行為だ。
  3. あの日、鳥肌が立ったのは川の写真がうまかったからか。それとも「なぜこれを撮ったのか分からない」一枚だったからか。
  4. 押し入れの上段のカメラを、あなたは誰のために取ってあるのか。

シオン:私からも一つ。きれいという言葉は、分かったという合図だ。分かったから名前を付けて先へ進める。けれど心が動くのは、分からないものの前だけかもしれない。今、あなたの手のひらの上を流れていく景色には、分かりやすく整えられたものばかりが並んでいる。分からない一枚は、そこに一枚も混ざっていないのかもしれない。

アキ:私からは一つだけ。今週、七時間眠れた日は何日あった。それだけ。

本日の羅針盤

針は一本にまとまりませんでした。編集部として、三つの方角をそのまま残します。

ケンゴの針:手間を、自分の手で買い戻す。 無料で無限の環境は、こちらに構えがない限り感動を静かに削っていく。取り返す方法は、面倒をわざと自分に課すことだ。
写真集を一冊買う。気に入った一枚を、A4でいいから紙に焼いて壁に貼る。月に一度でいい、誰かが順番を決めたものを、最初のページから最後まで見る。それだけであなたの目は、「弾くための目」から「見るための目」へ戻る余地がある。特別な才能はいらない。必要なのは面倒を引き受ける手間賃だけだ。

アキの針:まず、体を戻す。 一日じゅう傷を探した目に、夜まで残業させるのは酷。感じないんじゃなくて、感じるための体力が今日はもう残ってないだけ。帰りのバスでスマホを閉じて、窓の外を見ながら帰る日を週に二日つくる。それで戻る感度は、思っているよりずっと多いはず。

シオンの針:あの鳥肌は、器ごと訪れた。 写真だけを取り替えても、たぶん届かない。動けない待ち時間があり、匂いがあり、まだ何も決まっていない自分がいた。心が動くというのは、一枚の絵とその日の自分と、逃げ場のない時間が偶然そろったときに起きる出来事なのかもしれない。ならば必要なのはいい写真を探すことより、逃げ場のない十五分を一日に一度だけ持つことだろう。

ケンゴ:最後に、私から一言。あなたは「感受性が鈍ったのでしょうか」と書かれた。だが本当に鈍った人間は、鈍ったことに気づかない。気づいて、言葉にして、他人に尋ねている。その時点で回路は生きていると判る。

なお、何を見ても心が動かない状態が数週間以上続き、食欲や睡眠、仕事への意欲にまで広がっている場合は、感受性ではなく心身の疲れのサインであることがあります。その際は専門機関への相談もご検討ください。

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