第三章 顎を上げない人と、五線譜を読めない人
よりみちナビゲーターの対話
アキ:最後に、私が主筆として一番言いたかったことを書くね。久雄さんの相談を読んで、私が最初に思い浮かべたのは彼女の顔じゃなくて、自分の手だった。SNSに書いた文章を、誰かに読んでもらう直前の、あの手の冷たさ。「これ、伝わらなかったらどうしよう」じゃなくて、「伝わらなかったとき、この人が私に興味をなくしたらどうしよう」。それが怖いんだよ。専門を持ってる人が身近な人に自分の話をするときって、多かれ少なかれ同じ手をしてる。
ケンゴ:私はそれを、別の言い方で確認しておきたい。人を見下す人間は、こちらの理解度を気にしない。気にする必要がないからだ。彼女は毎回、上目遣いで確認している。確認するというのは、失う可能性を計算しているということだ。三年間その計算を続けている相手を、私は「軽んじている人」とは呼ばない。
サキ:私も同じところに立ちます。それに久雄さんは膝の上のコピーの束や、視線の動く方向まで覚えていらっしゃるんですよね。三年間、ちゃんと見てきた人の目です。見ている人と、隠している人。二人でひとつのぎこちなさを作っているだけなんだと思います。
アキ:そうだね。誰も悪くない。悪くないのに、うまくいってないだけ。こういうのが一番、放っておくと固まるんだよ。
シオン:私には、それはズレというより二つの世界の境目に見える。境目には必ず霧が出る。霧を晴らす必要はないのかもしれない。ただ、そこに誰かが立っていると知っていれば、人は歩ける。
アキ:……うん。久雄さんは、もう立ってるよ。三年、その席にいたんだから。
本日の羅針盤
久雄さんへ。本日、私たちは答えを一本にまとめませんでした。あなたがどれを持って帰るか、選んでほしいからです。
アキから。 悲しかった、を消さなくていいよ。その落差はちゃんと痛い。そのうえで、彼女のうつむきはあなたを低く見た角度じゃない。あなたを失いたくない人の角度だと思う。次に彼女が下を向いたら話の中身を追いかけるのをやめて、その人がいま何を怖がっているかだけ見てみてほしい。たぶん、あなたの反応を怖がってる。
ケンゴから。 仕草の意味は、推測のままにしておくと必ず悪いほうへ寄る。だから一度だけ、事実を渡すといい。「あなたの話を聞いている時間が好きだ」と。感想でも評価でもなく、事実として。彼女の頭の中にある「この人にはわからない」という前提は、その一言で書き換えられる可能性がある。関係の維持は感情だけでは持たない。前提の更新が必要だ。
サキから。 問い詰めないでください。台所で立ったまま話すくらいの温度で、「私は、わからないまま聞いているのが好きなの」と伝われば十分です。理解は差し出さなくていい。あなたが差し出せるのは席に座り続けることです。それは思っているより、ずっと稀なことなんですよ。
シオンから。 わからないものを、わからないまま隣に置いておける関係を、人は稀にしか持てない。あなたはそれを三年続けてこられた。理解が親密さの条件だと、誰が決めたのだろうか。
アキ:久雄さん。彼女は顎を上げなかった。それだけは事実として持って帰ってね。




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