最終章:合わない板で、棚は組める
あの板で、小さな棚を作りました。
寸法が三ミリ足りない。だから、そのままでは組めません。仕方がないので他の三枚のほうを、三ミリずつ削って合わせました。四十年やってきて、初めてです。間違った材に、正しい材を合わせにいったのは。
出来上がったものは、正直言って売り物にはなりません。天板がわずかに傾いている。水平器を当てると気泡が右に寄る。それでも、湯呑みを置いても倒れない程度には立っています。
孫に電話をかけました。用件はありませんでした。「棚ができた」とだけ言いました。あの子は「え、あれ捨てなかったの」と言って少し黙り、それから「見に行っていい」と言いました。日曜に来るそうです。
犬が、その棚の下で寝るようになりました。なぜだか分かりませんが、そこが気に入ったらしい。
少しは思いやりのある人間になれたのでしょうか。正直、自分ではまだよく分かりません。ただ、作業場が前より静かでなくなったことは確かです。
よりみちナビゲーターの対話
シオン: 間違った材に、正しい材を合わせにいった。──おそらく、あなたが四十年のあいだで一番遠くまで歩いた三ミリだと思う。
アキ: それ聞いた瞬間、私ちょっと泣きそうになった。だってさ、ふつう逆でしょ。合わないほうを捨てるか、削るかじゃん。それを、周りのほうを削って迎えにいったんだよ。──ねえ、これって人に対してもそうだよね。合わない人を直させるんじゃなくて、自分のほうを三ミリ削る。この人、もう答えを木で出しちゃってるじゃん。
ケンゴ: 私も同じところを見ていた。ただ、少し補足させてほしい。──三枚を削るというのは感動的な話に聞こえるが、職人としては手間もコストも増える判断だ。それを承知でやっている。つまりこれは、衝動ではなく選択だ。私はそこを評価したい。優しさは気分ではなく、コストを引き受ける覚悟のことだと、私は思っている。
アキ: ……ケンゴさんって、たまにすごくいいこと言うよね。
ケンゴ: たまには失礼だろう。
アキ: ごめん。でもさ、ひとつだけ言いたいことがあって。この人、最後にまだ「なれたのでしょうか」って聞いてるんだよ。まだ採点してる。私はそこ、手放してほしいな。天板が傾いてても湯呑みが倒れないなら、それでいいじゃん。合格も不合格もないよ。
ケンゴ: 私は少し違う。──アキの言うことは分かる。採点をやめろというのは正しい。ただ、この方から「確かめる癖」を全部取り上げたら、たぶん立てなくなる。四十年、水平器を当てて生きてきた人だ。器具を捨てさせるのではなく、当てる対象を変えればいい。自分の性格に水平器を当てるのはやめて、犬がその下で寝ているかどうかを見ればいい。それも立派な計測だ。
アキ: ……あ、それいいな。うん、それならわかる。
シオン: ──ところでひとつ、お伝えしておきたいことがある。
あなたは最後に「思いやりのある人間になれたのでしょうか」とお書きになった。その問いには、おそらく生涯答えは出ない。というより、答えの出ない問いを持ち続けている人のことを、世間では思いやりある人と呼ぶのだ。
自分は優しいと確信している人ほど、他人の肩が縮んだことに気づかない。あなたが不安なままでいることは欠陥ではなく、機能だ。
アキ: ……それ、ずるいよシオン。全部ひっくり返した。
シオン: ひっくり返してはいない。最初から、そこにあったものだ。──あなたは第一章で「見当もつきません」とおっしゃった。けれど実際には、電話をかけ、板を削り、棚を組んだ。見当がつかないまま、手だけは正しく動いている。頭より手のほうが先に知っていることは、職人にはよくあることではないだろうか。
ケンゴ: ……これは、私にも刺さるな。
シオン: 犬は、理屈で場所を選ばない。あの棚の下が居心地よかった。それだけだ。日曜に来るお孫さんも傾いた天板を見て、たぶん寸法の話はしないだろう。
自分に問いかけるロードマップ
- 三枚を削ると決めたとき、あなたは損得を計算しましたか。していなかったのなら、その瞬間のあなたは何を優先していたのでしょう。
- 「棚ができた」という一言に、あなたは何を託しましたか。孫はその託されたものを、受け取ったと思いますか。
- 日曜、孫が来ます。あなたが最初に言う言葉は「よく来たな」でしょうか、それとも「寸法が三ミリ足りなかった」でしょうか。どちらでも構いませんが、選べるということは覚えておいてください。
- これから先、あなたが誰かに厳しくしてしまう日が必ず来ます。そのとき、この棚を思い出せますか。思い出せる場所に、それは置いてありますか。
本日の羅針盤
三章にわたる対話の結びとして、三つの視座を置きます。
アキの視座: 思いやりは、身につけるものじゃなくて、思い出すものだった。あなたはもともと持ってた。ただ、それを「段取り」とか「仕事」って呼んで、優しさの棚に並べてこなかっただけ。これからは少しずつ並べていけばいい。棚はもう、そこにあるんだから。
ケンゴの視座: 性格を変える必要はなかった。実際、あなたは何も変えていない。寸法にこだわる職人のまま、削る方向を変えただけだ。四十年の技術は、そっくりそのまま使える。私が言えるのは一つ、用件のない電話を続けることだ。一度かけられたなら、二度目はもっと短い時間で済む。習慣は性格より扱いやすい。
シオンの視座: あなたは「自分勝手でわがままだ」と名乗ってこの相談を始められた。けれど自分勝手な人間は、自分の性格を四十年も気に病んだりしない。あなたが背負ってきたのは欠点ではなく、亡くなった奥様から預かった言葉だ。「正しいけど、冷たい」──あれは非難ではなく、託しごとだったのではないか。冷たさを自覚できる人にしか、温度は測れないのだから。
棚は傾いています。それでいい。水平でないものの上でしか、こぼれずに済まないものもある。
日曜に、お孫さんが来ます。その日、あなたはもう何の準備もしなくていいのです。やかんに水を入れておく。それだけで、あなたの作法としては十分すぎるほどです。
※ご家族との死別後、一年を過ぎても強い自責の念や気分の落ち込みが続く場合には、地域の遺族支援窓口や心療内科など、専門機関への相談もご検討ください。誰かに話すことは、弱さではなく段取りの一つです。




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