特別編:あんたが転んだ、次の日から
日曜に、孫が来ました。中学二年、十四になります。
棚を見て、あの子は何も言いませんでした。しゃがんで、犬の背中を撫でて、それから天板を指で押して、傾いているのを確かめて、「まあ、置けるならいいんじゃない」と言いました。私が水平器の話をしようとしたら、「聞いてない」と言われました。
昼に、うどんを茹でて食べました。あの子が急に、こう言ったんです。
「おじいちゃんさ、坂のとこにおがくず撒いてたじゃん。冬に」
覚えていました。うちの製材所の前は北向きの短い坂で、冬になると朝だけ凍ります。おがくずは毎日、掃いても掃いても出る。捨てるくらいなら撒いておけば滑らない。それだけの話です。十年近く、十二月から三月まで、毎朝五時半に撒いていました。やめたのは去年、腰をやってからです。
私は「あれは処分だ。廃棄物を減らしていただけだ」と答えました。実際そうです。
そうしたら、あの子が箸を置いて、こう言いました。
「ばあちゃんが言ってた。あれね、あんたが転んだ次の日から始まったんだよって」
私は覚えていませんでした。あの子が小学校に上がる前の冬に、あの坂で転んで額を切って、三針縫ったことは覚えています。でも、翌日から撒きはじめたかどうかなんて、自分では分からない。妻がそれを見ていたことも、知りませんでした。
あの子は続けて言いました。
「おじいちゃんは不器用だけど、ほんとは優しい人なんだよってばあちゃんが。だからおれ、おじいちゃんに怒られても、あんまり気にしてない」
うどんが伸びました。
よりみちナビゲーターの対話
シオン: ──十年、か。
アキ: 十年だよ。しかも五時半。私、ちょっと言葉が出ない。だってさ、この人ずっと「自分は自分勝手だ」って言ってたんだよ。その人が孫が転んだ次の日から十年、暗いうちに起きて坂におがくず撒いてたの。しかも本人が覚えてないの。無自覚なんだよ、全部。
ケンゴ: 私が注目したのは、対象の広がりだ。坂を通るのは孫だけではないだろう。近所の子ども、通勤の人間、配達も通る。孫のために始めたことが、結果として不特定多数を守っていた。しかもそれを「廃棄物の処分」と説明して、感謝される構造を自分で潰している。──控えめに言ってもこれは、相当な人だと思う。
アキ: ねえケンゴさん、そこなんだけど。私、ちょっと悔しいんだよね。なんで「処分だ」って言い張るの。今日くらい認めなよって思っちゃった。孫がせっかく言ってくれたのにさ。
ケンゴ: アキの気持ちは分かる。ただ、私はそこは責められないと思っている。「あれは君のためだった」と口に出した瞬間、その十年は貸しになる。この方は、それを本能的に避けたんじゃないか。無償のまま置いておくために、処分ということにした。──私も部下にやったことがある。恩を売った瞬間に、相手は動けなくなるからだ。
アキ: ……あー。そっか。認めないことが、優しさだったってこと?
ケンゴ: そう受け取っている。ただ、その代償としてこの方は四十年、自分を冷たい人間だと思い込んできた。無償にしすぎたんだ。自分の帳簿にすら記帳しなかった。そこはそろそろ改めていいと思う。
シオン: ──私が心を引かれたのは、お孫さんの最後の一言だ。「怒られても、あんまり気にしてない」。この子はあなたの優しさを信じているのではない。あなたの厳しさを、翻訳できるようになっている。
亡くなった奥様がなさったのは、あなたを弁護することではなかった。おそらく、通訳だ。あなたが「処分だ」と言うたび、奥様は孫の側でその言葉の下にあるものを訳して渡していた。十年かけて。
アキ: ……あ。じゃあ、あの「不器用だけど優しい」って言葉、慰めじゃなくて辞書だったってこと。
シオン: そう思う。辞書というものは、渡されたあとは自分で引けるようになる。──だからお孫さんは傾いた天板を見て、水平器の話を聞かなかった。あれはもう、訳す必要がなかったからだろう。「置けるならいいんじゃない」。あの一言は、あなたの言語をそのまま受け取った人の返事だ。
ケンゴ: 継承されているな。これは私にとっても救いのある話だ。
シオン: 奥様が「正しいけど、冷たい」とおっしゃったのは、あなたを直すためではなかったのかもしれない。冷たさを自覚しているあなたがそのまま孫の前に立てるように、あいだに立っていた。あの言葉は注意ではなく、引き継ぎの合図だったのではないだろうか。
自分に問いかけるロードマップ
- 三針縫った額の傷を覚えていて、翌日から撒きはじめたことを覚えていない。あなたの記憶は何を残して、何を捨てる仕組みになっているのでしょうか。
- 十年分のおがくずを、いま自分の帳簿に記帳するとしたら、どの欄に書きますか。「処分」の欄でしょうか。それとも、まだ名前のない欄でしょうか。
- 奥様はその十年を見ていました。あなたが気づかないところで、あなたを訳し続けていた人がいた。その事実を、あなたはどう受け取りますか。
- 腰を痛めて、去年から撒くのをやめています。今年の冬、あの坂は誰が見ますか。孫に頼むという選択肢を、あなたは考えたことがありますか。
本日の羅針盤
アキの視座: あなたはずっと、優しさを「持っていない」と思ってた。でも本当は、持っていることに気づかないまま配り続けてた。おがくずも、やかんの湯も、削った三ミリも、全部そう。もう探さなくていいよ。名前をつけてこなかっただけで、在庫は十年分もある。
ケンゴの視座: 無償にしすぎたことが、この方の唯一の失敗だったと私は思う。他人には配り、自分には一円も記帳しなかった。だから四十年、赤字だと信じていた。──ひとつだけ提案がある。今年の冬、坂におがくずを撒くのを孫に頼んでほしい。腰の話でいい。理由は説明しなくていい。あの子はなぜそれをやるのかを、もう知っている。
シオンの視座: あなたは「思いやりのある人間になりたい」と、この相談を始められた。けれど分かったのはなりたかったのではなく、ずっとそうであったことを誰かに教えてもらう必要があっただけだということだ。
その役目を、奥様は生前にお孫さんへ託していかれた。あなたが自分では読めない自分を、この子が読めるようにして。
日曜日、うどんは伸びました。それでいい。伸びたうどんの前で人が黙る時間のことを、たぶん人情と呼ぶのだと思う。
不器用というのは、優しさが下手だという意味ではない。優しさが、言葉より先に手から出てしまう人のことだ。あなたはもう、十年前にそう名づけられていた。
※長く連れ添った方を亡くされたあと、記憶の整理がつかず気持ちが乱れる時期が続く場合には、地域の遺族支援窓口や心療内科など、専門機関への相談もご検討ください。
編集長より
本来、第三章で完結の予定でした。しかし日曜日の記録が届いてしまった以上、載せないわけにいきません。
十年分のおがくずは、もう坂には残っていません。雪解けとともに、毎年きれいに流れていったはずです。記録の残らない場所に記録の残らないやり方で置かれ続けたものを、たった一人が見ていた。そしてその人は、それを孫に託して先に逝きました。
今年の冬、あの坂に誰が立つのか私たちには分かりません。
ご相談、ありがとうございました。




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