第二章:「飽きる」ことの正体 ― 続かない自分を責める前に
陶芸教室は、駅前の商店街の二階にあった。先生は六十代の女性で、手のひらが粘土と同じ色をしている。私は週に一度、仕事帰りに通った。最初の二ヶ月は、本当に楽しかった。轆轤(ろくろ)に向かっているあいだ、頭の中の独り言が止まる。あの感覚を今でも覚えている。
三ヶ月目に入った頃、湯呑みを一つ完成させた。釉薬(ゆうやく)の色が、思ったより深く出た。先生は「いいじゃない」と言ってくれた。私はその湯呑みを持ち帰り、台所の棚に置いた。そして次の週から、教室に行かなくなった。
家庭菜園もそうだ。トマトの苗を二本買って、庭の隅に植えた。毎朝、水をやり、葉の裏に虫がついていないかを確認した。実が赤くなり始めた頃、私は急にトマトの世話が「義務」に感じられるようになった。収穫したトマトをご近所におすそ分けして、それきりだ。
こういうことが人生で何度もあった。書道、英会話、ヨガ、写経。どれも最初の数ヶ月は熱心に取り組んで、ある日ふっと続けられなくなる。
私は自分のことを「飽き性」だと思っていた。けれど最近、少し違う気がしている。飽きているのではない。何かを「完成させてしまう」ことが、怖いのかもしれない。
四人の声 ― 「続かない」の奥にあるもの
ケンゴ:この方の自己分析は鋭い。「飽きているのではなく、完成させてしまうのが怖い」。これは自分を観察してきた人間にしか書けない一行だ。私は管理職として多くの部下を見てきたが、自分の弱点を言語化できる人間は実のところ少ない。多くは「自分は飽き性で」と笑って済ませ、それ以上は掘らない。
アキ:うん、わたしもそこ、ぐっときた。湯呑みが完成して、棚に置いて、次の週から行かなくなったっていうところ。これ、たぶん「飽きた」じゃないんだよね。「終わってしまった」が近いんじゃないかな。続いてる途中の自分はまだ何者かになれる可能性があるけど、完成しちゃうと「これが私の到達点です」って突きつけられる感じがする。
サキ:私もそう感じました。完成って、ある種の「査定」なんですよね。湯呑みが棚に並んだ瞬間、それが上手いか下手か、価値があるかないか、評価の対象になってしまう。続けているあいだはまだ評価されない場所にいられる。
ケンゴ:だが、ここで一つ問いたい。完成を避け続けることは本当にこの方を守っているのだろうか。私はそうは思わない。むしろ「完成させずに済ませる」習慣が、長い目で見ればこの方を追い詰めている可能性もある。三十年以上、何かを始めては手放してきた。その手放した数だけ、「私は何も完成させられない人間だ」という記憶が積み重なっているはずだ。
アキ:ケンゴさん、それは厳しすぎない? 完成させなかったから追い詰められたって言い方は、結局「ちゃんと最後までやれ」って話に戻っちゃうよ。それ、この方がいちばん言われたくない言葉だと思うんだけど。
ケンゴ:……いや、私は「最後までやれ」とは言っていない。「完成」と「終わり」は違う、と言いたかった。陶芸教室をやめたことは、悪いことではない。問題はやめたことを「飽きた自分の弱さ」として記憶していることだ。同じ事実を、別の言葉で記憶し直すこともできる。たとえば「二ヶ月、轆轤(ろくろ)に向かう時間を自分に与えた」と。
サキ:……ああ、その視点は私にはなかったです。やめたことの記憶を別の言葉で書き直す。それは、過去を改ざんすることとは違うんですよね。事実は同じでも、その事実をどう名付けるかは自分で選べる。
アキ:うん、それならわかる。ごめんケンゴさん、ちょっと早とちりした。
ケンゴ:いや、アキさんの反応は健全だ。「最後までやれ」と言われ続けてきた人間にとって、私の言葉の入り口は確かに警戒すべきものに聞こえる。そこを引っかけてくれたから、私もより正確に言い直せた。
気づきのセクション ― 「途中でやめた」の語り直し
サキ:私、子どもがまだ小さい頃に刺繍を始めたことがあるんですよ。布巾(ふきん)に花の模様を刺すような、簡単なものです。三枚刺して、やめました。それを長いあいだ、「私は何も続けられない母親だ」って思っていたんです。
でもある日、台所でその布巾を使っていてふと気づいたんですよ。三枚も刺したのか、って。子どもが昼寝しているあいだの、あの薄暗い和室で針を動かしていた時間が、確かにあった。三枚分の時間が、私にはあった。続けられなかったんじゃなくて、三枚分やったんだ、って。
シオン:「続ける」という言葉は、いつも未来の方角を向いている。けれど、「やった」という言葉は、過去のほうを向いている。私たちはなぜか未来の方角ばかりを正しいと思い込んでしまうが、過去の方角も同じ地続きではないだろうか。
陶芸教室に通った二ヶ月。トマトを育てた一夏。書道の半年。それらは続かなかったのではなく、終わったのだ。終わったものには、ちゃんとかたちがある。
本人に戻って ― 飽きるは、敗北ではない
ケンゴ:あなたが「飽きる」と呼んできたものは、おそらくもう少し複雑な現象だ。「完成への恐れ」もあるだろうし、「評価の俎上(そじょう)に乗ることへの忌避」もあるだろう。あるいは単に、「その時期のあなたに必要な分だけ、それをやった」というだけのことかもしれない。
アキ:新しいことを始めるとき、最初から「ずっと続けるつもり」じゃなくていいと思うんだよね。「三ヶ月だけやってみる」って決めて始めれば、三ヶ月でやめてもそれは「達成」になる。「やりたいこと」じゃなくて、「やってみたいこと」くらいの軽さでいい気がする。
サキ:そうですね。それに、やめたあとに残るものもあるんですよ、私の布巾みたいに。轆轤(ろくろ)に向かった二ヶ月のあいだに、手のひらが覚えた粘土の重さはたぶん、まだ残っているはずです。
本章の結論 ― 続かなかったものたちへの、別の名前
ケンゴから:「飽き性」という自己評価を、いったん横に置いてみてほしい。あなたがやめてきたものはすべて「途中で投げ出したもの」ではなく、「ある期間、確かにやり遂げたもの」だ。同じ事実に別の名前をつけ直す自由を、あなたは持っている。
アキから:新しいことを始めるとき、「ずっと続ける」を前提にしなくていいよ。「三ヶ月だけ」「ワンシーズンだけ」っていう短い区切りで始めれば、終わりがちゃんと「ゴール」になる。
サキから:やめた後に手に残る感覚を、大切にしてみてください。陶芸の粘土の重さ、トマトの葉の青臭さ、書道の墨の匂い。それは続かなかった証拠ではなく、確かに通ってきた道の手触りです。
シオンから:続けることだけが価値なのではない。終えることもまた、ひとつの作法だ。何かを終えるたびに、人は少しずつ別のかたちになっていく。



コメント