やりたいことがない人生は、本当に空っぽなのか ― 続かない自分との和解のしかた

第三章:明日の朝、犬に餌をやる手 ― 答えのない問いと、暮らしのほうへ

犬の名前は、ハナという。母が生きていた頃に拾ってきた雑種だ。母が亡くなってハナは私のところに来た。あの時、私は二十四歳だった。

ハナはもう、耳がほとんど聞こえない。後ろ足も弱ってきて、散歩は近所の公園までの往復が限度になった。それでも、朝六時には必ず起きる。私が布団から出るより先に、玄関のほうで爪を立てる音がする。十八年、ずっとそうだ。

最近、獣医さんに「そろそろ覚悟しておいたほうがいい年齢です」と言われた。覚悟という言葉が家に帰る道の途中で、ずっと胸につかえた。

ハナがいなくなったら、私の朝は何をするための朝になるのだろう。餌をやる手もリードを取る手も、行き場を失う。そう考えると、自分が「やりたいことがない」と言ってきたことが、急に薄っぺらく感じられた。私には、やってきたことがある。やってきたことの重さがある。

けれど、それを「やりたいことだった」と呼んでいいのかは、まだわからない。母が連れてきた犬を、ただ、引き取っただけだ。それだけのことを十八年、続けてきただけだ。

四人の声 ― 「やってきたこと」の重さに、どう向き合うか

ケンゴ:この方は、三章に至って、ご自身の核心に触れたのだと思う。「やりたいことがない」のではなく、「やってきたことを、やりたかったことだと認めるのがこわい」のだ。なぜ、こわいのか。それを認めてしまうと、その対象を失ったときに自分が崩れる予感があるからだろう。ハナがいなくなる日のことをすでに少し、想像しているのだと思う。

アキ:ケンゴさん、それね、すごく的を射てると思う。でもさ、私はちょっと別のことを考えてた。この方、母親が連れてきた犬を「ただ引き取っただけ」って書いてるんだよ。でも、十八年だよ。耳が聞こえなくなったハナと、毎朝向き合ってきた。これを「ただ引き取っただけ」って自分で言っちゃうの、すごくもったいないなって。

サキ:私もそこ、引っかかりました。「ただ」って言葉、この方はたぶん何度も自分に使ってきたんですよね。「ただ短大を出ただけ」「ただ役場に流れ着いただけ」「ただ犬を引き取っただけ」。
でも、「ただ」を全部外してみると、別の景色が見えてくる気がするんですよ。短大を出た。役場で働いた。犬を引き取った。──そのまま十分にひとつの人生です。

ケンゴ:サキさんの指摘は、優しい。だが、私はその優しさに一つだけ留保を加えたい。「ただを外せば十分な人生だ」という言い方は、確かに救いになる。しかし、ご本人がいま抱えているの、「これで十分かどうか」の問いではなく、「ハナがいなくなったあと、私はどうやって朝を迎えるか」という、もっと差し迫った問いではないだろうか。

サキ:……ああ、そうですね。私は少し先回りしすぎたかもしれません。「人生に意味はあった」と納得させることと、「これからの朝をどう生きるか」は別の話ですよね。

アキ:うん、別の話だね。でも、ケンゴさん。その「これからの朝」の話、どう続けるつもり? 正直、私には答えが見えないんだけど。

ケンゴ:……答えは私にもない。ただ、一つだけ言えるとすれば、「ハナがいなくなったあとの朝」をいまから準備する必要はない、ということだ。その朝が来たときに、初めてその朝のかたちが現れる。先回りして悲しむことは、ハナと過ごす残りの時間を薄くするだけだ。

アキ:……あ。それはわかる気がする。

気づきのセクション ― 「やってきたこと」を、過去形のまま置く

シオン:三人の話を聞いていて、私はひとつ思った。この方が「やりたいことがない」と書いたとき、その言葉は未来の方角を指していた。「これから、やりたいことを見つけられるだろうか」という不安だ。

けれど、章を重ねるごとに話は少しずつ、過去のほうへと向かってきた。陶芸教室の二ヶ月。トマトの一夏。そしてハナとの十八年。これらは未来の問題ではない。過去にすでに、起きたことだ。

過去に起きたことを、私たちはしばしば「足りなかった」「中途半端だった」と語ろうとする。けれど、過去はもう変えられない。変えられないものに「足りない」という評価を下し続けることは、ある種の自傷ではないだろうか。

過去は過去のかたちのまま、置いておく。「これはこうだった」と、ただ言う。良いも悪いも、足りるも足りないもつけずに。

ケンゴ:シオンの言葉に、私は補足したい。過去を「ただ、こうだった」と置けるようになると、未来への向き合い方も少し変わる。「これからやりたいことを見つけなければ」という義務感が薄れる。
なぜなら、過去がすでに「こうだった」と確定したものとして座っているなら、未来もまた「こうなる」と確定したものとして座る場所がある、と感じられるからだ。
今日も、明日も、たぶんハナに餌をやる。それは未来の予定であり、同時に、すでに過去から続いている事実だ。

本人に戻って ― 明日の朝、何が起きるか

サキ:明日の朝もたぶん、ハナの爪を立てる音で目が覚めるんですよね。布団から出て餌を出して、自分のためにコーヒーを淹れて自転車に乗って、子どもたちの出席簿を確認する。それを「やりたいことだ」と呼ばなくていいんです。「やる」と呼ぶだけで、十分なんですよ。

アキ:うん。「やりたいこと」って言葉、いったん辞書から消してもいいくらいだと思う。代わりに、「やること」と「やってきたこと」だけで人生を語ってみる。そうすると案外、自分の輪郭がちゃんと出てくる気がする。

ケンゴ:そして、ハナがいつか旅立つ日が来たら、その日のあなたはその日のあなたとして、何かを選ぶだろう。新しい犬を迎えるかもしれないし、迎えないかもしれない。庭にトマトを植えるかもしれないし、植えないかもしれない。
それは、いま決めなくていい。決めるべきは明日の朝、ハナに餌をやるかどうか、それだけだ。そしてその答えはすでに、あなたの中にある。

シオン:「やりたいことがない」という問いは、たぶん消えはしない。夜になると、また訪れるかもしれない。けれど訪れた問いを、無理に追い返す必要も答えを出す必要もない。問いと並んで座り、しばらくしたらそれぞれの方向へ別れていく。そういう付き合い方もある。

最終章の結論 ― 答えではなく、明日の朝のかたち

ケンゴから:「やりたいことがない人間に、やりたいことはあるのか」という問いには、私は答えを持たない。だが、「やりたいことがない人間にも、やってきたことはある」と、これだけは断言できる。十八年の朝が、それを証明している。

アキから:「やりたいこと」を見つけようとして疲れたら、その言葉ごと、いったん手放していいんだよ。手放しても明日の朝はちゃんと来るし、ハナはちゃんと爪を立てる。それで十分じゃないかな。

サキから:「ただ」を、外してみてください。あなたの人生の動詞から、「ただ」を一つずつ剥がしていくと、そこに残るものが思っていたよりずっと、確かなかたちをしていることに気づくはずです。

シオンから:問いは抱えたまま歩いてよい。問いに答えることが生きることなのではない。問いと共に朝を迎えることが、すでに生きることなのだ。

※もし、ハナとの別れが現実のものとなったとき、その悲しみが日常を立ち行かなくさせるようでしたら、ペットロスに対応した相談窓口や心の健康相談窓口に話を聞いてもらうことも、選択肢のひとつです。悲しみを一人で抱える必要はありません。

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