エピローグ・追章 ——「お早う」の声がする机で
あの子の写真に、朝の挨拶が集まる場所
火葬から数日が過ぎたある朝、課長が私の席まで来た。「この前は事情も知らずに悪かったな」と、少し不器用な言い方だった。あとから聞けば、あの日渋った先輩が、私が猫を亡くしたことをきちんと課長に話してくれていたらしい。渋られたと思っていた相手が陰で言葉を継いでくれていた。それを知って、私はしばらく返事ができなかった。
同僚たちも通りがかりに「大変でしたね」「十六年は長いですよ」と、口々に声をかけてくれる。誰も大げさにはしなかった。ただそれぞれの言葉に、それぞれの重みがあった。
私は迷った末、事務机の端に小さな写真立てを置いた。窓辺で目を細めている、あの子の写真だ。持ち込むのは気恥ずかしかったけれど、置いてみると不思議と机の空気が柔らかくなった。
やがて朝いちばんに出社した誰かが、その写真に向かって「お早う」と声をかけるようになった。私が席を外している間も、隣の人が、後ろの席の若手が、通りがかりの別の課の人までが、小さな写真に「お早う」と挨拶していく。
あの子はもういない。それでもこの机の上で、毎朝ちゃんと一日が始まっている。足元に来る重みはなくなったけれど、その代わりにたくさんの人の声が、あの子に届くようになった。
よりみちナビゲーターの対話
アキ:私、これ読んで泣いちゃった。だってさ、あの朝あんなに傷ついた場所が、最後にはあの子に「お早う」って言ってくれる場所になったんだよ。傷ついた場所と、癒される場所が、同じだったの。これって奇跡みたいなことだよね。
サキ:ええ。しかも渋った先輩が、陰でちゃんと課長に話してくれていた——ここが本当に沁みます。私たち、二章で「相手は不器用だっただけ」って話しましたよね。それがこういう形で報われるなんて。あの人は態度は硬かったけれど、心のどこかで気にかけていたんです。人ってそう単純に「冷たい人」じゃないんですよね。
ケンゴ:私もこの結末に驚いている。あの日、私は「相手を敵と固定するな」と言った。だが正直、そこまで期待はしていなかった。渋った本人が橋渡しをするとは。……人の内側は表に出た三分間の態度だけでは測れない。今回、私はそのことをあなたのエピローグから教わった。
アキ:ケンゴがそう言うの、珍しいね。
ケンゴ:珍しく、素直に負けを認めているんだ。構造や権利の話だけでは、この机の上の温かさは説明できない。
サキ:ケンゴさんの言うことも分かります。その上で、私はこう思うんです。この方が写真を置くまで、実は勇気が要ったはずなんですよ。「気恥ずかしかった」って書いていますよね。傷ついた場所にもう一度、自分の柔らかいものを差し出すのは怖い。でもこの方は、それをした。だからみんなの「お早う」が集まったんです。差し出したのは、あなた自身なんですよ。
シオン:……最後に一つだけ。あの子はもう、この世にいない。だが、毎朝写真に集まる「お早う」の声を、あなたは聞いている。命というのは体がなくなったあとも、こうして誰かの声の中でもう少しだけ続くのかもしれない。あなたが正直に理由を語ったあの朝がなければ、この机の上の朝は生まれなかった。渋られた三分間はこの風景の、最初のひと筆だったのだろう。無駄な悲しみなど、どこにもなかったのだ。
本日の羅針盤
長い連載の、最後の羅針盤です。
あなたは「ペットの葬儀は休む理由にならないのか」という問いから、この旅を始めました。傷つき、後悔し、自分を責め、それでも大切な子を見送りました。そして今、あなたの机の上にはたくさんの人の「お早う」が集まっています。
あの朝の悔しさを、無理に美談に変える必要はありません。渋られたことは確かに理不尽でした。けれどその理不尽の先で、あなたは写真を置く勇気を持ち、まわりの人はそれに応えました。傷ついた場所が、いちばん温かい場所に変わった——それは偶然ではなく、あなたが柔らかいものをもう一度差し出したからです。
足元に来る重みはもう戻りません。でも、あの子は消えていません。毎朝写真に声をかける人たちの中に、あなたの十六年の愛情の中に、確かに生きています。
十六年、ありがとう。そして見送ったあなた自身にも——よく見送ったと、言ってあげてください。
これであなたの物語の連載を、本当に終わります。どうか明日の朝も、あの机の上に穏やかな「お早う」が響きますように。




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