エピローグ:羅針盤を、ポケットに
三章を読み終えて、私はノートを閉じた。
部屋の窓の外は、もう夜が更けている。実家の二階、子どもの頃から使っている机の上で、私は半分だけ飲んだコップの水と書きかけのノートを前にしている。
旧友からのLINEには、まだ返事をしていない。
でも、不思議なことに、第一章を読み始めたときの「天井を見上げているしかなかった夜」とは少しだけ違う場所に、自分がいる気がする。
何かが解決したわけじゃない。明日の朝も、たぶん満員電車に乗って、コンビニのおにぎりを食べる。インスタグラムを開いてしまう夜も、また来るだろう。
ただ、ポケットの中に小さな羅針盤を一つ、入れた気がする。
よりみちナビゲーターからの、最後の言葉
アキ:ねえ、最後に一つだけ言わせて。
第一章で私、「武装したまま行っていい」って言ったでしょ。あれね、本当の意味は「武装してる自分を、まず認めてあげていい」ってことだったんだ。武装って、弱い人がするんじゃないんだよ。傷つきやすい人が自分を守るために、必死で考えた知恵なんだよ。
だから武装してる自分のこと、ちょっとだけ誇っていい。ここまで生きてきた工夫の塊なんだから。
そのうえでもし将来、誰かの前で武装を解ける日が来たら、それは「強くなったから」じゃなくて、「その人が武装を解いても大丈夫な人だったから」だと思う。あなたが弱かったんじゃない。たまたまこれまでの相手が、そういう人じゃなかっただけ。
それだけ。あとはゆっくりでいいからね。
サキ:私からも、ひとつだけ。
三章を通じて、私は「生活動線の中の五人」という話を繰り返してきました。それは即効性のある処方箋ではありません。書き出してすぐに、何かが変わるわけではない。
でも、半年後、一年後、あなたがふと「最近、呼吸が浅くなる人と、会わなくなったな」と気づく日が来るかもしれません。あるいは美容院の担当さんに、世間話以上の話を自分から少しだけしてみる日が来るかもしれません。
そのとき、第二章のことを思い出さなくていいんです。私たちのことも、忘れて構いません。ただ、あなたの呼吸が今より少しだけ深くなっていれば、それが私たちにとって何よりの答えです。
子育てをしながらたくさんの人と会ったり離れたりしてきた私から、これだけはお伝えしておきたい。「人と関わるのが怖い」という気持ちを抱えたまま生きてきた人は、誰かと関われたとき、その関係を誰よりも大切にできる人になります。私はそう信じています。
シオン:……三章を、お読みいただいた。
最後にひとつ、問いを置いて去ろうと思う。答えなくていい。心の隅に置いておいていただければ、それで十分だ。
「あなたが誰かに、本当の意味で会えるようになるのが先か。誰かがあなたに、本当の意味で会いに来るのが先か」
世の中の自己啓発の多くは、前者を急がせる。けれど、私はこう思っている。後者のほうが本当はずっと多いのではないか、と。
あなたが今夜、ここまで読んでくださったということ。それ自体がすでに「誰かに会いに行く」行為だったのではないだろうか。文字を介して、見知らぬ三人の声に耳を傾けてくれた。それは武装を一枚、薄くしてくださったということだ。
その薄くなった一枚分の隙間から、いつか誰かが、あなたに会いに来る。
私はそれを信じている。
編集長より
「感情の羅針盤」編集長です。
本日は全三章とエピローグにお付き合いいただき、ありがとうございました。
私たちが「読み物」という形にこだわったのは、即効性のあるアドバイスや明快な解決策をお渡しすることが、ときに悩んでいる方をかえって追い詰めてしまうと知っているからです。「こうすれば解決する」と言われてできなかったとき、人はもう一度、自分を責めます。
だから私たちは答えではなく、羅針盤をお渡しすることにしました。針が指す方向は人によって違います。アキの方向、サキの方向、シオンの方向――どれを選んでも構いません。三つとも持ち歩いて、その日の天気で使い分けても構いません。
羅針盤は、ポケットの中で揺れます。揺れることが壊れている証拠ではありません。あなたがまだ正直に生きている証拠です。
そして、もう一度だけお伝えします。もしも心身の不調が日常生活に影響するほど続いていたら、心療内科、カウンセリング、自治体の相談窓口、いのちの電話など、専門機関の扉をどうか軽く叩いてください。「相談する」ことは弱さではなく、自分を大切にする選択です。
旧友からのLINEに、急いで返事をする必要はありません。 インスタグラムをすぐに閉じる必要もありません。 人付き合いの怖さを、無理に克服する必要もありません。
ただ今夜、ここまで読んでくださったあなたへ。 ポケットの羅針盤が明日の朝、ほんの少しだけあなたの呼吸を助けてくれますように。
またどこかの夜に、お会いしましょう。




コメント