古い家で一人、説明のつかないものが見える夜に。心と暮らしを立て直す処方箋

最終章:四通の手紙――夜の家に、灯りをひとつ置いて

第一章では「正体を急いで断定しない」ことを、第二章では「夜と朝の生活を自分の手で設計し直す」ことを、四人で話し合ってきた。
最終章は説明や提案ではなく、相談者へ宛てた四通の短い手紙でお届けしたい。古い借家の台所で、湯呑みを両手で握りしめている三十七歳のあなたへ。机の上に、四つの封筒が並んでいる場面を想像していただけたらと思う。

一通目――アキより

はじめまして。たぶん私たち、街ですれ違っても気づかないと思うけど、それでも書きます。

あなたがこれまでお母さんのために費やしてきた半年間のこと、私には全部はわからない。でも、誰かを看取るって、たぶんその人が亡くなった日に終わるんじゃなくて、そのあと何ヶ月も、何年もかけてゆっくり終わっていくものなんだと思う。だから今、夜中に変なものが見えたり、わけもなく寂しくなったりするのは、あなたがちゃんとお母さんを見送る作業の途中にいるってことだと、私は思いたい。

無理に元気にならなくていいよ。SNSで誰かのキラキラした投稿を見て、自分だけ取り残されてる気がしてもそれは錯覚。みんな、それぞれの夜を抱えてる。あなたの夜がちょっとだけ静かになることを、勝手に祈ってるね。

二通目――ケンゴより

拝啓。面識のないまま、こうして筆を執ることをお許しいただきたい。

私もかつて組織の中で消耗しきって、夜中に台所で立ったまま冷えた飯を食っていた時期があった。あのころの自分にもし手紙を書けるなら、こう書きたい。「お前は今、十分やっている。だから明日から、座って飯を食え」と。

あなたに伝えたいのは、ひとつだけだ。介護というのは社会的にはあまり評価されない仕事だが、私はそれを最も静かで、最も尊い労働のひとつだと思っている。失業手当でつないでいる今の時間は、怠けているのではない。長い労働のあとの、当然受け取るべき休息だ。焦って次の仕事を探さなくていい。まずは自分の体重を、自分の足できちんと支えられる状態を取り戻すこと。仕事の話はそれからで遅くない。

古い家には古い家の良さがある。柱を一本ずつ、自分の手で確かめながら暮らしてみてほしい。敬具。

三通目――サキより

こんにちは。短い手紙をお送りしますね。

お母様を見送られて、本当にお疲れさまでした。この一言を、誰かにきちんと言ってもらえましたか。介護をされてきた方は、終わったあとに「お疲れさま」と声をかけてもらう機会が意外と少ないんですよね。だからもし誰にも言われていなかったら、私から言わせてください。本当にお疲れさまでした。

夜、台所に立つときに、お味噌汁を一杯だけでいいので自分のために作ってみてください。出汁は取らなくていいんです。お湯にお味噌を溶いて、乾燥わかめを浮かべるだけで構いません。座って、両手で椀を持って、湯気を顔に当てながら飲む。それだけで体の奥のほうが、少しほどけていくのを感じられると思うんです。

気配のことは、急がなくて大丈夫です。あなたの体と心が安全だと思えるようになってきた頃に、自然と見えるものも変わってきますから。

四通目――シオンより

日中が長い季節になりましたね。

あなたが見ている小さな男の子のことを、私は時どき想像しています。半袖のシャツを着て流しの前に立っている、その姿を。その子が誰なのか、私にもわかりません。けれど、ひとつだけ思うことがあります。彼はたぶん、あなたを怖がらせるために来ているのではない、ということです。

長いあいだ、誰かを支え続けてきた人のもとには、ときどきその人自身が忘れていた「幼い自分」が訪ねてくることがあります。その子は何かを要求しに来ているのではなく、ただもう一度、同じ家の中にいたかっただけなのかもしれません。

もし今夜また気配を感じたら、追い払う必要はありません。心の中で「おかえり」と、ひとこと言ってみてください。それで何かが劇的に変わるとは、私も約束できません。けれど、あなたの中の長く閉じていた何かの扉がほんの少しだけ、軋む音を立てるかもしれない。その音を、私はあなたと一緒に遠くから聞いていたいと思っています。

急がず、目を瞑(つむ)ってください。

編集長より、読者の皆様へ

説明のつかない体験は本人にしか見えず、本人にしか聞こえません。そのことが何より、人を孤独にします。けれど「説明できない」ということと、「自分が間違っている」ということはまったく別のことです。あなたが感じているものはたとえ他者に証明できなくとも、あなたにとっては確かに存在しています。その確かさを、まず自分で否定しないこと。それが孤独な夜を生き延びるための、最初の灯りになります。

そしてもし、夜があまりにも長く感じられるときは一人で抱え込まず、専門機関や相談窓口を頼ってください。霊的なものを否定するためではなく、あなた自身の心と体を、これからの長い時間を守るための当然の選択肢として。

本連載の結論

正体不明のものに、無理に名前をつけなくていい。けれど自分の生活には、自分の手で輪郭を引き直すこと。気配を追い払うのではなく、気配があっても揺るがない暮らしを、ささやかな手順から組み立てていくこと。長く誰かを支えてきた人ほど、終わったあとの自分自身に「お疲れさま」と声をかけることを忘れないでほしい。あなたの夜が少しずつ、静かなものに変わっていきますように。

相談窓口(再掲)

  • よりそいホットライン:0120-279-338(24時間/無料)
  • 地域包括支援センター:お住まいの市区町村に設置。介護を終えたご家族の相談にも応じる窓口があります。
  • 心療内科・精神科・睡眠外来:金縛りや不眠、強い気分の落ち込みが二週間以上続く場合に。

――『感情の羅針盤』編集部

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