六回目の電話と、三十分の椅子
六回目の約束は、日曜の昼だった。私は前の週から仕込みの順番を組み替えて、その日だけは午前で上がれるようにしていた。土曜の夜十時二十分、電話が鳴った。番号を見た瞬間に、内容が分かった。
「ごめん、明日、先輩が体調崩して出なきゃいけなくなった」
彼の声はいつもより低くて、鼻をすする音が混じっていた。泣いているのかもしれないと思った。私は明るい声で「大丈夫、しょうがないよ」と言いかけて、そこで止まった。止まったまま三秒くらい黙った。彼が「もしもし」と言った。
「あのね」と私は言った。「しょうがないのは分かってる。でも私、いま結構つらい」
言ってしまってから、心臓が耳の裏で鳴った。彼は何も言わなかった。長い沈黙のあと、「ごめん」ともう一度言って、それから小さな声で「どうしたらいいのか、俺、本当に分かんないんだ」と言った。
その「分かんない」に、私は怒れなかった。彼はごまかしていない。ただ、二人ともやり方を知らないだけだ。電話を切ったあと私は台所の椅子に座って、明日の午前に空くはずだった三時間のことを考えた。この三時間は、誰のものなんだろう。
よりみちナビゲーターの対話
アキ:あなた、言えたね。えらいよ本当に。「しょうがないよ」を飲み込まずに、三秒黙ってから本音を出せた。その三秒が全部だと思う。しかもね、相手を責める形じゃなく「私がつらい」で出せてる。これ、めちゃくちゃ難しいことをやってるよ。
サキ:しかも彼の「どうしたらいいのか分からない」も、逃げ口上ではなく本音ですね。ここは大事だと思うんです。彼はあなたを軽く見ているわけではなくて、単に道具を持っていない。恋人ができたのが初めてで、繁忙期の職場にいて、謝る以外のやり方を教わったことがないんですよね。
ケンゴ:私も同意する。そのうえで一つ整理したい。前章で私は「約束の設計を変えろ」と言った。だが今回、あなたは日曜の午前を空けるために前の週から仕込みの順番を組み替えている。つまりあなたは彼のシフト一回のために、自分の一週間を先に動かしてしまっている。これが五回繰り返されたなら、消えたのは一日ではない。五週間分の段取りだ。カチンとくるのは当然だろう。感情の問題ではなく、投じた資源が回収されていない。
アキ:ケンゴさんの言うことは分かる。ただ、その言い方だけは受け取り方を間違えると危ないと思う。「資源」って言葉で恋愛を測りはじめると、次に彼女が考えるのは「じゃあ私はもう何も投じない」になっちゃう。守りに入った関係って、たぶんしぼむよ。私は投じ方を減らすんじゃなくて、投じる場所を変えてほしい。一週間の段取りを組み替えるんじゃなくて、もともと空いてる午後の三十分に彼を呼ぶ。減らすんじゃなく、置き場所を移す。
ケンゴ:投じる場所を変える、という言い方には賛成する。私が言いたかったのも同じ結論だ。ただし付け加える。彼の勤務が本当に月八十時間規模の残業と休日出勤を伴っているなら、それは彼の意思では動かせない領域だ。あなたが彼のシフトに合わせようとすること自体が、構造的に無理だ。合わせるべきは彼のシフトではなく、二人のあいだにある「短い時間」の使い方だと思う。
サキ:そこなんですけれど、私はもう少し手前が気になっています。彼が「分からない」と言ったなら、それは相談されているのと同じですよね。だったら次にやることは話し合いではなくて、翻訳だと思うんです。あなたが「こうしてくれたら嬉しい」を二つか三つ、具体的な行動として渡してあげる。曖昧な「もっと大事にして」ではなく、「流れそうだと思った時点で、確定する前に一言ほしい」「会えない週は、寝る前に五分だけ電話したい」くらいの粒の大きさで。彼は今、正解を探して固まっているだけです。
アキ:それはいいね。でも、ひとつだけ言わせて。サキさんの案って優しいけど、彼女が「彼の教育係」になっちゃう危険があると思う。五回謝られて、こっちが傷ついて、そのうえマニュアルまで作ってあげるのって、けっこう重い労働だよ。
サキ:ええ、その危険はあります。ですからこれは、一回きりの作業にしてください。何度も渡すものではなくて、一度渡して、彼がそれを使えるかどうかを見る。使えなければ、それは相性の答えです。私が言いたいのは教え続けろではなくて、判断材料を一度だけ作りましょうということです。
ケンゴ:判断材料という言い方は正確だと思う。加えて、「彼が本当は会いたくないのではないか」という可能性にも触れておきたい。私はこの疑いを、いま採用しているわけではないが。
採用しない理由は二つある。一つは彼が毎回確定した後にではなく、前日の夜に連絡していること。二つ目は、電話で声を詰まらせていることだ。会う気のない人間は、罪悪感を演出する必要がない。
ただし、判定の基準として持っておいたほうがいい。彼の側から会う提案が一度も出てこない状態が続くなら、そのときは前提を見直す。
アキ:うん。……で、本人の話に戻すね。あなたが台所の椅子で考えた「この三時間は誰のものなんだろう」って問い。あれ、すごく大事だと思う。答えを言うね。その三時間はあなたのものだよ。彼が来ないなら、あなたが使っていい。パンを焼いてもいいし、寝ててもいい。空いた時間を「失った時間」にしないだけで、次のドタキャンの痛みは半分になる。
自分に問いかけるロードマップ
- 彼に渡す「具体的なお願い」を、三つ以内で書き出してみる。抽象的な要望は一度も入れずに書けるか。
- 次に流れたとき、空いた時間で自分がやりたいことを、あらかじめ一つ決めてある状態か。
- 「私がつらい」と言えたあの三秒を、私は自分の弱さとして記憶しているか、それとも前進として記憶しているか。
- 彼の側から「この日どう?」という提案が来たことは、この五か月で何回あったか。
- 三か月後の自分にこの関係の状態を報告するとしたら、何が変わっていれば「続けてよかった」と言えるか。その基準を今のうちに、一行で決めておく。
本日の羅針盤
第二章の針は、第一章より近い場所に集まりました。
三人が共通して指しているのは、「彼のシフトに自分の生活を合わせるのをやめる」という方向です。合わせようとしてきたのは誠意であって、間違いではありません。ただ、前日に予定が確定する職場を相手にした場合、合わせるという行為そのものが、あなたの一週間を人質に取ります。
そのうえで、針の向きは分かれます。
ケンゴは「投じた資源を回収できる形に組み替える」を指しています。長い一日ではなく、短い時間を高い頻度で。合わせる対象を、彼の休みから二人の隙間へ。
サキは「一度だけ、翻訳して渡す」を指しています。彼は正解を知らないだけであって、拒んでいるのではない。粒の細かい要望を一度渡し、それを使えるかどうかで判断する。教え続ける係にはならない。
アキは「空いた時間を自分に返す」を指しています。流れた三時間を喪失として数える限り、あなたは何度でも同じ場所で傷つく。その時間を最初から自分のものとして持っておく。
そしてすでに大きなことを一つ、済ませているのを忘れないでください。あなたは六回目の電話で、明るい声を演じるのをやめました。関係が動きはじめる地点は、たいていそこからです。
彼の勤務状況について一点、事実として記しておきます。月八十時間規模の時間外労働が続く状態は、日本の制度上、健康障害のリスクが高まる水準として扱われています。彼が眠れない、食欲がない、休日に起き上がれないといった様子を見せる場合は、恋愛の問題として抱え込まず、勤務先の産業医や社内相談窓口、あるいは各都道府県労働局の総合労働相談コーナーといった専門機関への相談もご検討ください。あなた自身も夜の連絡のために睡眠を削っているなら、同じ注意が必要です。
参考情報リスト
- 「時間外労働の上限規制」(厚生労働省):労働基準法上、時間外労働は原則として月45時間・年360時間が上限とされ、特別条項を用いる場合でも単月100時間未満、複数月平均80時間以内などの制限が設けられている。
- 「血管病変等を著しく悪化させる業務による脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準」(厚生労働省):脳・心臓疾患の労災認定において、発症前2か月から6か月にわたって1か月あたりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合、業務と発症との関連性が強いと評価される旨が示されている。
- 「総合労働相談コーナー」(厚生労働省・各都道府県労働局):労働条件や職場のトラブルについて、労働者・事業主の双方が無料で相談できる窓口。




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