月80時間の不安定残業の果てに。すれ違う彼との関係を変えた、病室での長い対話

駅の改札で二十八分、それが私たちの正しい長さだった

秋の終わりに、彼から初めて「この日どう?」という連絡が来た。木曜の夕方、彼の職場の最寄り駅で、十八時から十九時のあいだなら出られると思う、という内容だった。「思う」と書いてあるのが正直で、私は笑ってしまった。

私は仕込みの順番を組み替えなかった。その日はもともと午後に予定のない日で、私は昼寝をしてから電車に乗った。改札の外にあるベンチで待って、十八時六分に彼が走ってきた。制服のシャツの上に上着だけ羽織って、名札をつけたままだった。

駅のコンコースにあるチェーンのコーヒー屋で、二十八分だけ話した。彼は繁忙期がいつ終わるか分からないと言い、私は朝四時起きの生活で最近覚えた粉の話をした。話の内容は、たいしたものではなかった。ただ彼が、コーヒーのカップを両手で持って、「連絡だけは、確定する前にする」と言った。それだけは守れると思う、と。

あれから二か月が経った。その間に、約束は二回流れた。でも二回とも、確定する前に連絡が来た。夜に五分の電話をする日が、週に二回か三回ある。会えたのは二か月で三回。以前より増えたけれど、多くはない。

私はまだ、彼と暮らす未来を見られていない。ただ、あの明るい声を演じることは、もうしていない。

よりみちナビゲーターの対話

アキ:ねえ、二十八分だよ。私、この二十八分がすごく好きだ。一日空けて一時間半かけて会いに行った五回の約束より、名札つけたまま走ってきた二十八分のほうが、ちゃんと会えてるって感じがする。あなたが昼寝してから電車に乗ったところも最高。自分を先に整えてから、会いに行ったんだね。

サキ:「思う」と書いてあったのを笑ってしまった、というのがいいですね。以前のあなたなら、その「思う」に不安を感じていたはずです。今回は笑えている。同じ言葉でも、受け取る体力があるときは意味が変わりますね。

ケンゴ:数字を確認しておきたい。以前は六回の約束で一回。今は二か月で三回、そして流れた二回はいずれも事前連絡がある。私が注目するのはそこだ。会えた回数の増加より、予測可能性が上がったことのほうが重要だと思う。前日の夜に確定した後で謝られるのと、確定前に「危ないかもしれない」と伝えられるのでは、あなたが失うものの量が違う。彼は一つの約束を守った。それは「謝る」以外の手段を持てた証拠だ。

アキ:うん。ただね、ケンゴさんの言うことも分かるけど、私はここで「改善しました、よかったですね」で終わらせたくない。だってこの人、まだ「彼と暮らす未来を見られていない」って書いてるよ。それってけっこう重い一行だと思う。三回会えたことと関係を続けたいかどうかは、別の話だよね。

ケンゴ:別の話であることには同意する。私は関係が改善したと言ったのではなく、運用が機能しはじめたと言った。そのうえで、彼女の判断を急がせる必要はないと思う。予測可能性が上がったなら、判断のための材料が集まりやすくなったということだ。以前は彼が会いたくないのか、会えないのかさえ分からなかった。今は分かる。会えない理由は勤務だ。ならば次の問いは、その勤務が続く前提でこの関係を続けられるかどうかになる。それは彼の誠意の問題ではない。

サキ:私もそこは、分けて考えたほうがいいと思います。ただ一つ、生活の側から言わせてください。二か月で三回、夜に五分の電話が週に二、三回。この頻度で成り立つ関係というのは、実際にあります。私の知る範囲でも、勤務時間の噛み合わない二人がそういう形で何年も続けている例はあります。問題は頻度そのものではなくて、その頻度をあなたが「足りない」と感じ続けるかどうかですね。

アキ:サキさん、それはちょっと引っかかる。「足りないと感じるかどうか」って言い方だと、感じてしまう自分が悪いみたいに聞こえない? 私は足りないと感じるのは、正当だと思う。二十三歳から二十六歳の三年間を、ただ待つためだけにすり減らしていいわけないじゃない。待つことに使う時間の値段は、けっこう高いよ。

サキ:ええ、その通りです。言葉が足りませんでした。感じてしまう自分を責めろということではまったくありません。私が言いたかったのは、「足りない」という感覚は我慢で消せないので、消そうとしないでほしいということです。消そうとすると、また明るい声が戻ってきます。その声が戻った日が、たぶん一番危ないですね。

アキ:あ、それは分かる。ごめん、そういう意味だったんだね。……うん、それだ。判断の基準って、たぶん「会えた回数」じゃないよ。「明るい声を演じたくなっているかどうか」だ。あなたは今、演じていない。それが続いているあいだは、この関係はまだ生きてる。

ケンゴ:良い基準だと思う。私からも一つだけ足しておく。彼の繁忙期がいつか終わったとき、会う回数が本当に増えるかどうかを見ておいたほうがいい。増えるなら、これまでは条件の問題だった。増えないなら、条件ではなかったということになる。それは責める話ではなく、二人の距離の取り方の相性の話だ。答えを出すのはあなた自身でかまわない。

シオン:三人の話を聞いていて、ひとつ思ったことがある。あなたは五回の約束を失ったと書いていた。けれどその五回は、本当に失われたのだろうか。
もし一度も流れなかったなら、あなたは「大丈夫だよ」と言い続けたまま、自分がつらいことに気づかなかったかもしれない。彼も、謝る以外の言葉を探さずに済んでいたかもしれない。
二十八分のコーヒーが二人にとって意味を持ったのは、その前に流れた五回があったからではないだろうか。うまくいかなかった時間が後から役目を持ちはじめることは、案外あるように思う。

シオン:それから、もうひとつ。あなたは未来を見られていないと書いていた。それを欠けたものとして数えなくてもいいのかもしれない。見えていない場所を歩いている人だけが、まだ選べる側にいる。

自分に問いかけるロードマップ

  1. 最近、彼に対して明るい声を演じたくなった瞬間はあったか。あったなら、それはどんな場面だったか。
  2. 「二か月で三回」という頻度を、私は不足として数えているか、それとも今の条件での上限として受け入れているか。どちらでも構わないが、自分がどちらなのかは知っておく。
  3. 彼の繁忙期が終わったら、私は何が変わることを期待しているか。それを一つだけ、具体的に書いておく。
  4. この二か月で、私自身の生活に増えたものは何か。減ったものは何か。彼を数に入れずに書き出してみる。
  5. 一年後、この関係がいま以上に進んでいなかったとして、それでも自分の一年を「悪くなかった」と言えるか。
  6. 私が彼に伝えていないことでいま一つだけ伝えるとしたら、それは何か。

本日の羅針盤

三章にわたって、針は一本に揃いませんでした。最後まで揃えないことにします。

ケンゴの針は「予測可能性を見る」を指しています。会えた回数ではなく、事前に知らされるかどうか。この一点が変わったことは、相手が謝罪以外の手段を獲得した証拠であり、続けるか否かを判断する材料が揃いはじめたことを意味します。そして繁忙期が明けた後の変化を、判断の最終材料として観察すること。

サキの針は「足りなさを消そうとしない」を指しています。低い頻度で成立する関係は実在します。ただし、足りないという感覚を我慢で塗り潰した瞬間から、その関係は静かに損なわれます。感覚は消さず、抱えたまま置いておくこと。

アキの針は「明るい声を演じていないかどうか」を指しています。これがあなたにとって、一番信頼できる計器です。演じていないあいだは続けていい。演じはじめたら、そこが分かれ道です。

シオンの針は、どこも指していません。流れた五回が後から役目を持ちはじめたように、いま不足に見えるものが何になるかは、まだ決まっていないという立場です。

四つの針のどれを読むかは、あなたが決めてください。羅針盤は行き先を教える道具ではなく、いま自分がどちらを向いているかを知るための道具です。三か月前のあなたは、電話口で明るい声を出す方向を向いていました。いまは違う方向を向いています。それだけは、確かに動いた事実です。

なお、相手の勤務状況が月八十時間規模の時間外労働を伴う状態のまま長期化する場合、これは恋愛の問題の範囲を超えます。彼が眠れない、休日に起き上がれない、食事が摂れないといった様子を見せるようなら、勤務先の産業医・社内相談窓口、または各都道府県労働局の総合労働相談コーナーといった専門機関への相談もご検討ください。あなた自身についても、待つことや夜の連絡で睡眠が削られ、気分の落ち込みが続くようであれば、地域の精神保健福祉センターなどの窓口があります。抱え込む必要はありません。

参考情報リスト

  • 「時間外労働の上限規制」(厚生労働省):時間外労働は原則として月45時間・年360時間が上限とされ、特別条項を用いる場合でも単月100時間未満、複数月平均80時間以内などの制限が設けられている。
  • 「総合労働相談コーナー」(厚生労働省・各都道府県労働局):労働条件や職場のトラブルについて、労働者・事業主の双方が無料で相談できる窓口。
  • 「精神保健福祉センター(こころの健康相談統一ダイヤル)」(厚生労働省・各都道府県・指定都市):こころの健康、ストレス、不安などについて相談できる公的窓口

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