月80時間の不安定残業の果てに。すれ違う彼との関係を変えた、病室での長い対話

点滴のスタンドの横で、二人は初めて長い話をした

一月の第二週に、彼の職場の先輩から電話が来た。番号を知らない相手だったので最初はとらず、出るまでに二回かけ直させてしまう。ロビーで倒れて、そのまま救急車で運ばれたと聞いた。命に別状はない、ただ入院になったと。

私はその日、窯の前にいた。エプロンを外して、粉のついた腕を洗って、電車に乗った。一時間半かけて彼の街に行くのは、それが二度目だった。

病室は四人部屋の窓側だ。彼はベッドを少し起こして、点滴のスタンドを横に立て、私を見て笑った。頬がへこんでいて、笑うと骨のかたちが分かる。「変な会い方になったね」と彼は言った。私は持っていく物を何も思いつかなくて、駅で買ったペットボトルの水を一本だけ握っていた。

それから私たちは、四時間くらい話した。付き合って半年以上経って、初めてのことだった。彼は自分の家族のことを話し、私は朝四時に起きる暮らしがどれだけ静かかを話した。看護師さんが二度入ってきて、二度目には「そろそろ」と言われて、私は少しだけ席を立った。

戻ったとき、彼はまだ起きていた。そして、弱く笑いながら言った。

「あの会社、辞めるよ。それから、君の街に引っ越したい」

私は返事ができなかった。嬉しいと思う気持ちと、それを今この場所で言わせてしまったことへの申し訳なさと、もっと別の、名前のつかない怖さが同時に来た。

「いいよ」とも「待って」とも言えないまま、私は水のペットボトルを彼のテーブルに置いた。

よりみちナビゲーターの対話

アキ:まず、彼が生きててよかった。本当に。それだけは最初に言わせて。……そして、あなたが返事できなかったこと、私はそれでいいと思う。むしろその場で「嬉しい」って言い切らなかったの、すごいよ。その状況って、言わせる圧が強いもん。点滴と、へこんだ頬と、四時間の話。頷かない人はほとんどいないと思う。

サキ:四時間、というのが胸に来ますね。皮肉ですけれど、彼が働けなくなって初めて、二人に時間ができたんです。会えなかった理由が勤務だったという答え合わせが、こんな形でされてしまいました。

ケンゴ:私はこの一件を関係の問題としてではなく、まず労務と健康の問題として見ている。順序を間違えたくない。彼は倒れて入院した。原因が勤務にあるなら、そこで最初に必要なのは恋人の返事ではなく、記録と手続きだ。勤怠の記録、勤務先とのやりとり、診断内容。これは彼が回復してから自分で動く話だが、体調が落ちている人間はこうした手続きを一番取りこぼしやすい。

アキ:ケンゴさんの言うことは分かる。分かるけど、今そこを一番に置くのはちょっと反対。この人が今抱えてるのは書類の話じゃないよ。好きな人が病室で「辞める、君の街に行く」って言った、その言葉の重さをどう受け取っていいか分からないっていう話だよ。手続きの話をされると、感情が置き場所を失う。

ケンゴ:置き場所を失わせたいわけではない。私が懸念しているのは別のことだ。病室で口にした決断を彼女が受け取ったと解釈された場合、その後の彼の人生の一部を彼女が背負う構図になる。
会社を辞めて、慣れない街に引っ越して、それでうまくいかなかったとき、彼が言葉にしなくても「君のために動いた」という事実が残る。私はそれを彼女に負わせたくない。だから、返事をしなかったのは正しい。そして次に必要なのは、決断そのものを否定することではなく、決断の時期を分けることだと思う。

サキ:私も、時期を分けるという言い方に賛成します。ただ、少し違う角度から言わせてください。彼が「辞める」と言ったのは、あなたのためだけではないと思うんです。倒れるという経験は、それまで見えていた道を一度全部見えなくします。私も昔、無理を重ねて動けなくなった時期に、それまで当然だと思っていた働き方が、急に他人事のように見えたことがありました。彼はいま、自分の生活を初めて外側から見ている。その視点は本物です。ただ、体力が戻ると景色はまた変わります。両方とも彼の本音なんですよね。

アキ:……あ、それすごく納得した。あの言葉を「弱ってるから出た言葉」って片付けたくないもんね。彼はたぶん本気だよ。本気だけど、いま出せる本気は、体力が底のとき出したやつ。

サキ:はい。ですからあなたが返すべき言葉は、「いいよ」でも「待って」でもなくて、たぶん「その話、退院してからもう一回聞かせて」だと思います。断ってもいませんし、受け取ってもいます。彼の決断を否定せずに、時期だけを動かせますね。

ケンゴ:それは良い言い方だ。私が言おうとしていたことを、彼女が使える形に直してもらった。付け加えるなら、退院後に話すときの論点は二つある。
一つは、会社を辞めることそれ自体。これは彼の健康の問題であり、恋愛とは切り離して考えるべきだ。
もう一つは、引っ越し。これは二人の問題だ。この二つを同じ日に一つの決断として扱うと、後で必ずこじれる。

アキ:それ、順番として正しいと思う。……で、本人の話に戻すね。あなたがあの病室で感じた「名前のつかない怖さ」って、私はたぶん分かる。嬉しいのに怖いのって、これから自分が誰かの人生に関わることになるって感覚だよね。今までは会えないことに傷ついてる側だった。これからは、この人の暮らしに影響を与える側になる。立ち位置が変わる怖さだと思う。

アキ:そして、これは言っておきたい。あなたが彼を入院させたわけじゃないよ。あなたが会いたがったから彼が働きすぎたわけじゃない。原因は勤務時間だよ。そこだけは、間違えないでね。

自分に問いかけるロードマップ

  1. 病室で感じた「名前のつかない怖さ」に、いま名前をつけるとしたら何になるか。責任、期待、それとも自信のなさか。
  2. 彼が会社を辞めることに私は賛成しているか。彼が引っ越してくることと切り離して、それだけを考えたときにどう思うか。
  3. もし彼が辞めて引っ越してきて、それでも私たちがうまくいかなかったとしたら、私はそれを自分の責任として抱えるだろうか。抱えると思うなら、いま彼に何を確認しておくべきか。
  4. 四時間話して、初めて知った彼のことは何だったか。それは会えなかった半年のあいだに知りたかったことだったか。
  5. 私は彼に、看病する人として関わりたいのか、それとも隣で暮らす人として関わりたいのか。いまはどちらに近いか。
  6. 退院の日までに、自分の生活のなかで守りたいものを一つだけ決めるとしたら、それは何か。

本日の羅針盤

ケンゴの針は「二つの決断を分ける」を指しています。会社を辞めることは彼の健康の問題であり、あなたの街に来ることは二人の問題です。同じ日に一つの決断として扱えば、後にどちらの理由でそうしたのかが誰にも分からなくなります。分けて、順に話すこと。

サキの針は「時期だけを動かす」を指しています。彼の言葉を弱さの産物として扱わず、本音として受け取ったうえで、「退院してからもう一度聞かせて」と返す。否定せず、保留もせず、置き直すだけです。

アキの針は「自分が加害者だと思わないこと」を指しています。彼が倒れた原因は勤務時間です。会いたがったあなたのせいではありません。この一点を取り違えると、あなたはこれから彼の回復のあいだずっと、償う人として隣に立つことになります。それは、二人のどちらのためにもなりません。

シオン:病室で長い時間が生まれたことを、皮肉と呼ぶ気持ちは分かる。けれど、順番が逆だったのかもしれない。会えなかったから話せなかったのではなく、話す時間を持たないまま会おうとしていた半年だったのではないだろうか。二人はいま、順番を取り戻したところにいるように見える。

シオン:それから、彼が口にした決断のことを。人は自分が壊れたあとで、初めて自分の暮らしの輪郭を見ることがある。そのとき見えたものが正しいかどうかは、まだ誰にも分からない。ただ、見えたという事実は残る。あなたが返事をしなかったことも、同じように残るだろう。答えないという返し方がいちばん誠実な場面は、たしかにある。


この記事の内容に関して、実務的な注意を記します。

過重な労働の後に倒れて入院された場合、勤務が原因である可能性があるなら、労働災害の認定を申請できる場合があります。窓口は勤務先を管轄する労働基準監督署です。また、業務外の傷病で働けない期間については、健康保険の傷病手当金という制度があります。いずれも要件があり、個別の判断が必要ですので、勤務先の担当部署、加入している健康保険の窓口、または各都道府県労働局の総合労働相談コーナーにご相談ください。

退職の意思を、体調が回復しないうちに勤務先へ正式に伝えるかどうかは、慎重に検討する余地があります。休職制度が使える場合もあり、選べる道は退職だけではありません。ご本人が判断しきれない状態であれば、専門機関への相談もご検討ください。

そして、大切な人が倒れた側の方へ。看病と自分の生活の両立で眠れない、気分が落ち込むという状態が続く場合は、地域の精神保健福祉センターなどの相談窓口があります。支える人が先に倒れないことが、いちばん確実な支え方です。

参考情報リスト

  • 「労災保険給付の概要」および「労働基準監督署」(厚生労働省):業務上の事由による負傷・疾病について、療養補償給付や休業補償給付などの申請を受け付ける窓口。
  • 「傷病手当金」(全国健康保険協会ほか各健康保険):業務外の病気やけがで働けない期間について、健康保険から支給される制度。所定の要件がある。
  • 「総合労働相談コーナー」(厚生労働省・各都道府県労働局):労働条件や職場のトラブルについて、労働者・事業主の双方が無料で相談できる窓口。
  • 「精神保健福祉センター(こころの健康相談統一ダイヤル)」(厚生労働省・各都道府県・指定都市):こころの健康、ストレス、不安などについて相談できる公的窓口。

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