第四章:「ごめんね」と最初に言ったのは、誰だったのか
娘が夕方、めずらしく長く眠ってくれています。
私はソファに座って、何をするでもなく向かいの壁を見ています。テレビは点いていません。スマートフォンも、今は手に取りたくありません。三十分くらい、こうしているような気がします。
ふと、子どものころの台所の景色が浮かびました。
母が流しの前で、洗い物をしています。私はたぶん、小学校の低学年だったと思います。学校で何かいいことがあって、それを母に話したくて、後ろから「ねえ、お母さん」と声をかけました。母は振り返らずに「ちょっと待って」と言いました。
──そこまではよくある光景です。問題は、その次です。
母が洗い物を続けながら、独り言のようにこう言ったんです。「お母さん、なんでこんなに毎日疲れるんだろうね。ごめんね、ちゃんと話聞いてあげられなくてごめんね」。
私はたしか、「ううん、いいよ」と答えた気がします。そして自分の部屋に戻りました。話したかったことはもう、思い出せません。
大人になってから、母とその話をしたことはありません。母はいまも元気で、週に二回、孫の顔を見に来てくれます。優しい母です。私をちゃんと育ててくれた、優しい母です。
ただ今朝、娘の顔を見て私の口から最初に出た言葉が「ごめんね」だったとき、私は母の背中を思い出しました。
「ごめんね」と最初に言ったのは、本当に私だったのだろうか。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:……この章はサキとして、読むのにいちばん時間がかかった章でした。
アキ:うん。読んでて私も息が浅くなった。
サキ:私がまずお伝えしたいのは、これはお母さまを責める章ではない、ということです。この方のお母さまも、たぶんご自身のお母さまから何か似たものを受け取って、それを抱えて流しの前に立っていた。そういう、長い長い列の話なんです。
アキ:「ごめんね」のリレー、みたいなことだよね。
サキ:ええ。日本の女性のあいだで何世代にもわたって、母から娘へ、娘からその娘へと、静かに手渡されてきた言葉が、たぶんあるんです。「ごめんね」「ちゃんとできなくてごめんね」。これは悪意ではなく、その時代その時代を、女性たちが必死に生き延びるために編み出してきた言葉なのだと、私は思っています。
シオン:……「ごめんね」という言葉はもともと、誰かに向けて発せられているように見えて、本当は自分自身に向けて発せられていることが多い。
サキ:そうですね。
シオン:「私はまだ、足りていない」。この感覚を、世代を超えて受け継いできた人々がいる。受け継いだ本人たちは、それが受け継がれたものだとはたいてい気づかない。なぜならそれは最初から、空気のように家の中にあったからだ。
アキ:……うわあ。それけっこう、ズシッとくるな。
シオン:気づくのはいつも、自分が次の世代に手渡そうとした瞬間だ。──朝、わが子の顔を見て自分の口から「ごめんね」が出た、その瞬間にようやく、「あ、これは自分が最初に作った言葉ではなかったのかもしれない」と気づく。
サキ:私はこの気づきは、悲しい気づきであると同時に、希望の気づきでもあると思っているんです。
アキ:希望?
サキ:はい。なぜなら受け継いだものだと気づいた瞬間に初めて、「ここで、止めることもできる」という選択肢が生まれるからです。
アキ:……あ。
サキ:「ごめんね」のリレーを自分のところで止めて、娘さんには別の言葉を手渡す。そういう選択ができるようになる。気づかなければ止められない。気づいた人だけが止めるか、続けるかを選べる。──この方はもう、気づいていらっしゃるんです。
アキ:そっか。「ごめんね」が出ちゃう自分を責めてるってずっと思ってたけど、それ、責められる材料じゃなくて、止められる入り口ってことか。
サキ:ええ。そしてこれも申し上げたいのですが──お母さまを責める必要は本当にないんです。お母さまはお母さまの時代を、お母さまなりに必死に生きてくださった。週に二回、孫の顔を見に来てくれるいまのお母さまを、ちゃんとお母さまとして受け取っていい。受け継いだ言葉だけは、私のところで別の言葉に置き換える。──両方できます。
シオン:……過去を赦すことと未来を変えることは矛盾しない。
アキ:あのさ、ちょっと聞いていい?
サキ:はい。
アキ:「ごめんね」のかわりに、娘さんにどんな言葉をかけたらいいんだろう。
サキ:……決まった正解があるわけではないと思っています。ただ、私が上の子のときにやってよかったなと思っているのは──朝、子どもの顔を見て、自分の体に問いかけたんです。「いま私は、この子に何を言いたいだろう」と。最初に出てくる言葉が「ごめんね」だったら、それを言わずにもう一拍待ってみる。すると二番目の言葉が出てくることがあるんです。
アキ:二番目の言葉。
サキ:「おはよう」とか、「よく寝たね」とか、「今日も会えたね」とか。──大したことのない言葉です。でも毎朝、「大したことのない言葉」を一番目に置く練習を少しずつしていくと、半年くらいかけて家の中の空気が、ほんの少し変わっていくんです。
シオン:……空気が変わるのには、時間がかかる。けれども空気は、必ず変わる。
アキ:「ごめんね」をすぐに消そうとしなくていいんだね。一番目じゃなくて、二番目とか三番目にちょっとずつ移していけばいい、ってことか。
サキ:ええ。一気にやろうとしないでください。一気にやろうとすると、また「できない自分」を責める材料になってしまうから。
自分に問いかけるロードマップ
第四章を読みながら、ご自身にこんな問いを置いてみてください。急がなくてかまいません。
- 私の口から出てくる「ごめんね」は、本当に私が最初に作った言葉だろうか。それとももっと前の誰かから、手渡されたものだろうか。
- 子どもの頃、母(あるいは父、祖母)の口から、いちばんよく聞いた言葉は何だっただろう。その言葉はいま、私の口から娘に向かって出ていないだろうか。
- もし「ごめんね」を一番目から二番目に移せるとしたら、一番目に置きたい言葉は何だろう。「おはよう」だろうか、「会えたね」だろうか、「今日もいてくれてありがとう」だろうか。
- 母を責めずに、けれども母から受け継いだ言葉だけは自分のところで止める──この二つを同時に行うのに、私には何が必要だろう。
本日の羅針盤
サキは、こう申し上げたいと思います。──「『ごめんね』が口をついて出る朝を、ご自身の欠陥だと思わないでください。それはもしかすると、あなたが最初に作った言葉ではないのかもしれません。気づいた人だけが、止めるか続けるかを選べます。今朝、その入り口に立っているご自身を責めるのではなく、迎えてあげてください」。
アキは、こう付け加えます。──「『ごめんね』を、すぐに消そうとしなくていい。一番目から二番目に、二番目から三番目に、ちょっとずつ後ろにずらしていくだけで、半年後の朝の空気は変わってる。私はそうなることを信じたい」。
シオンは、静かに言葉を残します。──「過去を赦すことと未来を変えることは矛盾しない。お母さまをお母さまのままに置いておいてかまわない。あなたが手渡す言葉だけは、あなたがこれから選んでいけばよい」。



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