第二章 言葉の相場が下がるとき、何が起きているか
よりみちナビゲーターの対話
サキ:第一章で「相場」という話が出ましたので、そこから続けますね。ご相談者さんが感じている変化は、たぶん「褒める人が増えた」ではなく、「褒め言葉一枚あたりの重さが軽くなった」ことだと思うんです。同じ千円札なのに、買えるものが減っている。
ケンゴ:その通りだ。私は製造業の管理職を長くやっているが、この十数年で部下との面談は増え、記録に残す項目も増えた。指導の場面で最初に肯定を置けという指針は、どこの会社にもある。理屈としては正しい。人は否定から入られると耳を閉じるからだ。
ただ、正しい作法が全員に配られると、その作法は情報を持たなくなる。全員が「さすがです」から始めるなら、「さすがです」は句読点と同じだ。
アキ:うん、そこは同意する。でもさ、私が引っかかるのはそれを「劣化」って言い切っちゃう空気なんだよね。昔は褒め言葉が貴重だったって言うけど、その裏には褒められないまま終わった人が山ほどいたはずでしょ。
うちの上の世代の話を聞くと、怒鳴られて育って、四十年経っても一回も認められた記憶がないって人がいる。私は言葉が軽くなってでも、届く回数が増えたほうがいいと思ってる。今日しんどい人には、今日の一言が要るから。
ケンゴ:アキの言うことも分かる。ただ私は、あえて反論したい。届く回数が増えたのではなく、届いた気がする回数が増えただけではないか。ご相談者は実際に増えた褒め言葉を浴びて、それでも冷蔵庫の前で空になっている。回数が救いになるなら、この相談は届かなかったはずだ。
アキ:……それは、痛いところ突かれた。
サキ:お二人の話、どちらも生活の中では起きていることだと思います。ただ、私は少し違う角度から言わせてください。褒め言葉が軽くなったこと自体より、ご相談者さんを疲れさせているのは返さなければいけないという感覚のほうではないでしょうか。
「字がきれいで助かります」と言われたら、こちらも何か返さないと座りが悪い。町内会で「真似できない」と言われたら謙遜して、相手を褒め返して。
あれ、短い挨拶に見えて実は毎回、小さな貸し借りが発生しているんですよね。二十年同じ職場で数を合わせてきた方は、貸し借りをきちんと覚えてしまう人です。だから溜まる。
ケンゴ:それは私になかった視点だ。負債として蓄積するという見方は、理にかなっている。
シオン:貸し借り、と聞いて思うことがあります。港町では魚を分けたら、翌週に大根が返ってくる。返せる相手とだけ、ものをやりとりしてきた土地なのかもしれない。今、差し出される言葉の多くは、返す先が分からない。名前も知らない担当者、来月には異動している人。返せない贈り物を受け取り続けると、人は少しずつ息が浅くなるのだろうか。
サキ:ご相談者さんが「世の中のことがよくわからない」とおっしゃったのは、たぶん知識の話ではないんですよね。返さなくていい言葉のやりとりに、まだ身体が慣れていない。それだけだと思います。慣れていないことは、恥ではないです。
自分に問いかけるロードマップ
ここからは、ご自身の中を確かめるための問いをいくつか置いておきます。答えを出す必要はありません。読んだあと、数日かけて浮かんでくるもので十分です。
- 最近もらった褒め言葉のうち、三日経って覚えているものはどれですか。その言葉は誰が、どんな状況で言いましたか。
- 覚えている言葉と、忘れた言葉のあいだにある違いは何でしょうか。相手との時間の長さか、具体性か、あるいは相手が何かを差し出していたか否か。
- 褒められたとき、あなたは何を返そうとしていますか。その「返さなければ」は、誰に教わったものですか。
- あなた自身が誰かを褒めるとき、どんな言い方をしていますか。その言い方はあなたが受け取って嬉しかった言葉に似ていますか。
- 「いい年して恥ずかしい」と書かれましたが、その恥ずかしさは誰の目線から来ていますか。実在する誰かですか。それとも、頭の中にいる審査員ですか。




コメント