52歳、始発のバス停。八年分の言葉を飲み込んだ朝の「その先」

第二章:会釈は返ってきた。それで私は、もっと動けなくなった

翌朝、四時五十分に目が覚めました。目覚ましは五時十分に掛けてあったのに、その二十分前に、猫が枕元に来るより先に、目が開いてしまったのです。

前の晩、鏡の前で会釈の練習をしました。五十二年生きてきて、今さらの会釈の練習です。角度が深すぎると重いし、浅いと素っ気ない。三回やって、馬鹿らしくなってやめました。

五時四十分。雨は上がっていませんでした。傘の下から見ると、彼はベンチの右端に座っていました。前の日と同じ場所です。膝の上に譜面はなく、文庫本がありました。

私は左端に座りました。心臓が耳の裏で鳴っていました。

——顔を上げたのは、たぶん、二分くらい経ってからです。彼がこちらを見ました。目が合いました。私は練習していない角度で頭を下げました。彼も下げました。それだけです。

バスが来て、彼は前の扉から乗り、私は後ろから乗りました。会釈は、返ってきたのです。

なのにその日の私は、ずっと落ち着きませんでした。仕込みの手が止まって、店長に二度声を掛けられました。うれしいはずなのに、胃のあたりが重いのです。

気づいてしまったからだと思います。会釈が返ってきたということは、明日は挨拶をしなければならないということです。前に進んだぶんだけ、次が怖くなる。八年前もこうでした。楽譜を渡せた翌週から、私は彼の顔を見られなくなったのです。

私はうまくいくことが怖いのかもしれません。

よりみちナビゲーターの対話

サキ: ここ、すごく大事なことを書いてくださったと思います。「うまくいくことが怖い」。この一行にたどり着ける方は、そう多くありません。私も似た時期がありました。仕事の依頼が増えはじめた頃、断る理由を先に探していたんです。増えるということは、次に減ったときに落ちる高さが上がるということですから。

アキ: わかるよ。すごくわかる。会釈が返ってきた瞬間って天国みたいなのに、その直後に「じゃあ次は」って、自分で自分にノルマ課しちゃうんだよね。私もSNSで反応もらった日ほど、夜眠れなかったもん。
でも私、この人にちょっと言いたいことがあって。八年前に楽譜を渡せた翌週から顔を見られなくなったって、それ後退じゃないと思うんだ。近づいたから怖くなったんだよ。遠い人は怖くないもん。怖さは距離の目盛りだよ。

ケンゴ: 目盛りという言い方は、私も納得する。ただ、その先を考えたい。この方は八年前、目盛りが上がった時点で撤退している。今回も同じ地点に立った。ここで必要なのは、怖さの意味づけを変えることではなく、撤退できない仕組みを作ることだ。

サキ: 撤退できない仕組み、というと。

ケンゴ: 挨拶を「する/しない」の判断を、毎朝その場でさせないということだ。判断の余地がある限り、五時四十分の雨のベンチという最悪の条件下で、この方は毎回判断を迫られる。判断は必ず「今日はやめておこう」に傾く。だから前の晩に決めておく。明日は言う、と。決めた以上、その場では実行しかない。

アキ: ケンゴさんの言うことも分かるんだけど、ただ——それ、この人には逆効果じゃないかな。前の晩に鏡の前で会釈の練習して、三回で馬鹿らしくなってやめた人だよ。「明日は必ず言う」って決めた夜、この人は眠れないと思う。で、寝不足で五時四十分に立って、余計に声が出なくなる。仕組みが本人を追い詰めることってあるよ。

ケンゴ: アキの懸念は分かる。ただ、決めないままの八年が、すでに一つの結果を出している。何もしないことも選択であり、その選択にもコストがある。私はそのコストのほうが大きいと見ているだけだ。

サキ: 私、この方の「胃のあたりが重い」というのを、もう少し具体的に掘り下げたいんです。仕込みの手が止まって、店長に二度声を掛けられた。これは生活が少し削られたということですよね。恋の高揚が、仕事の精度を食いはじめている。ここは見ておいたほうがいいと思うんです。明日の朝、生活が維持できる状態でバス停に立てるかどうか。

アキ: ……それは、たしかに。

サキ: だから私は、挨拶の期限を決めるのも決めないのも、どちらでもいいと思っています。そのかわり、決めたい提案がひとつあります。
バス停の七分間を、彼のための時間にするのをやめませんか。文庫本でもいいし、その日の仕込みの段取りでもいい。自分の手元に何かを持っていく。手元に何もないと、人は相手の一挙一動を全部読んでしまいますから。持ち物がひとつあるだけで、呼吸が変わります。

シオン: ……お三方の話を聞いていて、ひとつ思い浮かんだことがある。この方は会釈が返ってきたことを、「前に進んだ」と書かれた。けれど、本当に進んだのは誰なのだろう。頭を下げたのは、あなた。返したのは、彼。八年前のあなたが渡した楽譜を、彼は受け取った。今回も、彼は返した。彼はいつも、応じている側なのではないだろうか。

サキ: ……ああ。

シオン: 応じてくれる人が、八年を経て同じベンチにいる。それは怖さの目盛りが上がったという話ではなく、返してくれる人がこの世に一人いるという話かもしれない。挨拶が明日でも、来月でも、あるいは一生できなくても、その事実は減らない。急ぐ必要があるかどうか、私には分からないが。

自分に問いかけるロードマップ

  • 「うまくいくことが怖い」と書かれたとき、あなたが本当に怖れているのは断られることですか。それとも、断られなかった先に続く関係を自分が維持できないことですか。
  • 八年前、楽譜を渡した翌週から顔を見られなくなった。あのとき誰かに「よくやった」と言われていたら、翌週のあなたは違いましたか。今、その言葉を自分に言えますか。
  • 仕込みの手が止まった日を、あなたは「駄目な日」と数えますか。店長に二度声を掛けられただけで済んだ日、とも数えられませんか。
  • 明日、あなたが彼に「おはようございます」と言えたとして、その五文字は誰のための五文字ですか。彼のためですか。それとも、八年前に何も言えなかったあなたのためですか。

本日の羅針盤

ケンゴは「判断の余地を消せ」と言いました。決めた夜が、朝のあなたを運びます。
アキは「怖さは距離の目盛りだ」と言いました。怖いのは、近づいた証拠です。
サキは「手元に何かを持て」と言いました。七分間を彼に明け渡さないための、小さな重りです。
シオンは「応じてくれる人が一人いる」と言いました。急ぐか急がないかは、そのあとの話です。

四つは矛盾しません。前の晩に決めるかどうかはあなた次第ですが、文庫本は明日から鞄に入れられます。会釈が返ってきた事実は、もう誰にも取り消せません。八年前と違うのは、今回のあなたが怖くなった自分を、「うまくいくことが怖いのかもしれません」と言葉にできたことです。

言葉にできたものなら扱えます。

なお、うれしい出来事のあとに落ち込みや身体の不調が続く、仕事に支障が出る状態が長引くという場合は、恋愛の悩みとは切り離して、かかりつけ医や自治体の心の健康相談窓口に一度話してみることも選択肢に入れてください。

よりみちナビゲーター

人生の岐路で立ち止まったすべての人へ。答えを「断定」せず、あなた自身が納得できる「複数の選択肢」と「視点の切り替え方」を優しくお伝えする道案内チームです。

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