最終章:五文字は、思っていたよりずっと短かった
三日目の朝は、晴れました。
前の晩、どうするかは決めませんでした。決めようとして、やめました。かわりに鞄に文庫本を入れました。古本屋で百円だった、表紙の焼けた短編集です。読むつもりはありません。ただ、手に持つものが欲しかったのです。
五時四十分。彼はいませんでした。
ベンチの右端が空いていて、私はそこを見ないようにしながら左端に座ります。文庫本を開いて、同じ行を四回読みました。バスが来たので乗りました。それだけの朝です。
帰りの道で、私は自分でも驚くほど平気でした。がっかりはしています。けれど、胃は重くありませんでした。二日目のほうがずっと苦しかったのです。
四日目。彼はいました。
私は左端に座って、文庫本を開いて、それから閉じました。
「おはようございます」
声は思っていたより、普通に出ました。顔は熱かったと思います。彼はこちらを見て、「おはようございます」と返します。それから少しだけ間があって、彼のほうが先に言いました。
「前にどこかでお会いしていませんか」
私は覚えていてくれたのか、と思いました。同時に、はっきりとは覚えていないのだなとも思いました。両方が同時にありました。
「合唱団にいました。楽譜を配っていた者です」
「ああ」と彼は言いました。「ああ、そうでしたか」
バスが来るまで、あと三分ありました。彼は膝の文庫本の背表紙を指でなぞりながら、天気の話をしました。私は相槌を打ちました。気の利いたことは何ひとつ言えませんでした。八年ぶんの言葉は、どこにも出てきませんでした。
それだけです。恋人になったわけでも、連絡先を交換したわけでもありません。
でも私は、仕込みの手を止めませんでした。玉ねぎを刻んで、人参を刻んで、いつも通り昼までに終わらせました。鼻歌は出ませんでした。かわりに、心は静かなままでした。
よりみちナビゲーターの対話
サキ: 「鼻歌は出ませんでした。かわりに、心は静かなままでした」。私、この二行を読んでしばらく手が止まりました。一日目の鼻歌と、四日目の静けさ。どちらが良いという話ではなくて、質が違うんですよね。鼻歌はまだ、何も起きていない人の音です。静けさは、起きたあとの人のものです。
アキ: うん……。私ね、正直言うと読みながらちょっと悔しかったの。「気の利いたことは何ひとつ言えませんでした」って書いてるでしょ。そこを悔やんでほしくないんだ。だってこの人、三日目に彼がいなかった朝を平気で越えてるんだよ。そっちのほうがすごいって。
二日目は会釈が返ってきて胃が重くなった人が、三日目は空振りして平気だった。四日目に声が出たのは、その順番だったからだと思う。
ケンゴ: 私も、決着がついたのは四日目ではなく、三日目だと見ている。三日目の空振りで、この方は「彼がいない朝も自分の生活は回る」というデータを取った。それまでは失敗の可能性が、無限大に見えていたはずだ。実測して、大したことがなかった。その一回があったから、四日目に判断の余地を残したまま声が出た。前の晩に決めなかったのは、正しかったと思う。
アキ: ……ケンゴさん、それ、自分の案を撤回してる?
ケンゴ: 撤回ではない。仕組みで撤退を封じるという方針は、判断が毎回ゼロから始まる人には有効だ。だがこの方は、三日目に自分で下ごしらえを済ませていた。仕組みを外から掛ける必要がなかったというだけだ。……アキの言い分のほうが、この方には合っていた。それは認める。
アキ: ……ありがと。
サキ: ただ、私はひとつだけ、この方に伝えたいことがあるんです。彼が「前に、どこかでお会いしていませんか」と言った。あのとき覚えていてくれたという喜びと、はっきりとは覚えていないという寂しさが同時に来た、と書かれていますよね。あそこを飛ばさないでほしいんです。
ケンゴ: どういう意味だろう。
サキ: この方は八年間、彼のことを毎日のように思っていたわけです。でも彼にとっては、楽譜を配っていた誰かなんですよね。この非対称は、これから何度も出てくると思うんです。相手の中の自分は、自分の中の相手よりいつも小さい。それを恨まずに受け取れるかどうかで、この先が変わります。
アキ: ……それ、きついけど本当だね。
サキ: きついです。でも、この方はもう受け取っていると思うんですよ。「両方が同時にありました」と書けている。片方を消していない。だから大丈夫だと、私は思っています。
ケンゴ: その上で、実務的なことをひとつ。この関係を続けたいのであれば、次に必要なのはバス停以外の接点だ。始発のバス停はこの方にとって幸運な場所だが、七分間しかない。天気の話で終わるのは構造上当然だ。合唱団が今も活動しているなら、そこに戻る道がある。彼が戻るかどうかは分からないが、少なくとも「バスで会う人」以外の名前が互いに付く。
サキ: 焦らせるつもりはありませんけれど、それは私も同意です。ただ順番としては、まず明後日も「おはようございます」が言えるかどうかですね。四日目に言えたことより、十四日目に言えていることのほうが、この方の人生を変えると思います。
シオン: ……私は、八年という数え方のことを考えていた。この方は八年前から数えておられる。けれど楽譜を渡した日から今日までの八年、彼のことを思っていた時間は、無駄でも足踏みでもなかったのではないだろうか。
アキ: どういうこと?
シオン: 五十二年生きて、鏡の前で会釈の練習をする人がいる。三回で馬鹿らしくなってやめる。その人が四日目に、文庫本を閉じて声を出した。この一連のことは、八年前の若い自分にはできなかったはずだ。八年は待っていた時間ではなく、支度をしていた時間だったのかもしれない。
サキ: ……支度。
シオン: 煮豆の火加減が気になって一本遅らせた。そういう暮らし方をする人になるまでに、八年かかった。彼と話せたのは、その暮らし方の延長にある。この先どうなるかは、私には分からない。ただ、支度の済んだ人が、支度の済んだ朝に立った。それだけはもう、起きてしまったことになる。
自分に問いかけるロードマップ
- 三日目、彼がいなかった朝。あなたは「がっかりはしていたが、胃は重くなかった」と書きました。あの朝のあなたに、名前をつけるとしたら何ですか。
- 「気の利いたことは何ひとつ言えなかった」。では、気の利いたことを言えていたら、あなたは今より満足していましたか。それとも次のハードルが上がっただけですか。
- 彼の中のあなたが、あなたの中の彼より小さいこと。それを寂しいと思う自分を、責めていませんか。寂しいと思っていいと誰かに言われたら、どう感じますか。
- この四日間で、あなたが手に入れたものを三つ挙げてください。「彼と話せた」以外に、二つ書けますか。
- 明日の朝、彼がいてもいなくても続けたいと思えることは、何かありますか。
本日の羅針盤
三章にわたって、四人が別々のことを言いました。最後に一本化するつもりはありません。あなたに必要なものは、あなたの朝が決めます。
アキは、怖さを距離の目盛りだと言いました。近づいたから怖い。それは壊れていないという意味です。
ケンゴは、偶然に賭けるなと言いました。バス停の七分は幸運ですが、七分は七分です。関係を続けたいなら、あなたの側から場を増やすことになります。
サキは、一回で仕上げるなと言いました。四日目に言えたことより、十四日目に言えていることのほうが重い。そして相手の中の自分がいつも小さいことを、恨まずに受け取れるかどうか。
シオンは、八年は支度だったと言いました。
あなたは「彼と話せるようになりたい」と書きました。四日目の朝、あなたは話せました。気の利いたことは言えませんでしたが、天気の話をして、相槌を打って、仕込みの手を止めずに一日を終えました。それは、話せる人の一日です。
八年前に何もしないまま終わることだけは避けたい、と書かれていました。それは避けられました。ここから先、彼と何がどうなるか分かりません。関係が育つかもしれないし、バス停の挨拶だけで何年か過ぎるかもしれない。それでも、五十二歳のあなたが文庫本を閉じて声を出した朝は、もう取り消せないところに置かれました。
鼻歌の出た一日目と、静かだった四日目。次にあなたを待っているのはたぶん、どちらでもない普通の朝です。普通の朝に「おはようございます」と言えたら、そのときもう、この相談は終わっています。
もし今後、緊張や不安のために日常生活や仕事に支障が続くと感じられる場合は、恋愛の悩みとは切り離して、かかりつけ医や自治体の心の健康相談窓口へ一度話してみることをご検討ください。話せる場所は、バス停のほかにもあります。




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