煎餅と、まだ会っていない誰かへ
私は北陸の小さな町で、祖母から継いだ和菓子屋の二代目をしている五十路の男です。妻はなく、店の二階でひとり暮らしをしています。若い頃から不思議なことがありました。願ったことが、なぜか叶うのです。
小さなことなら、その日のうちに。「今日はあんこより、香ばしいものが食べたいな」と思った夕方、常連の老婦人が焼きたての煎餅(せんべい)を手土産に持ってきてくれる。そんな具合です。
大きなことだと、時間はかかります。
「こういう跡取り修行を積んだ職人が来てくれたら」と頭の中で思い描いた青年が、二年ほど経って本当に弟子入りを志願してきました。顔立ちも、手の使い方の丁寧さまで、私が想像していたとおりです。
この店を継ぐと決めた頃、「もっと風通しのいい商店街になってほしい」と願えば、数年かけて若い店主たちが集まり、通りの空気が変わっていきました。ところが、逆のことも起きるのです。繁忙期に「今日こそ早く仕舞って湯につかりたい」と強く念じるほど、閉店間際に大口の注文が舞い込む。逆に「別に遅くなってもいい」と手を止めた日に限って、すっと暇になる。
願いが叶うとき、裏返るとき、時間がかかるとき。そのパターンが読めません。私は目に見えぬ力を信じています。ただ、どう願えば一番なめらかに叶うのか、いまだにつかめずいるのです。
よりみちナビゲーターの対話
シオン:面白い話をお持ちだ。あなたはさっきから、「願いが叶う」と言い続けている。けれど煎餅が手元に来たとき、それは本当に「叶った」からだろうか。もともとあなたを訪れるはずだった煎餅に、後から「願い」という名前をつけただけということはないか。
ケンゴ:私はそこに関心がある。シオンの言うことに近い。人間の記憶というのは、叶った願いだけを鮮明に残す。叶わなかった無数の願い――たとえば「宝くじ、当たれ」と念じて外れた日のことは、きれいに忘れていくものだ。心理学ではこれを、確証バイアスと呼ぶ。あなたの「だいたい叶う」という感覚は、この選別の結果である可能性が高いと思う。
シオン:ケンゴの言うことも分かる。ただ、私はそれを「錯覚だから捨てなさい」と言いたくはないのだ。
サキ:私もそこは同じ気持ちですね。頭ごなしに「気のせいですよ」と言われたら、この方はきっと寂しいと思うんです。だってその「願う」という習慣が、たぶんこの方の暮らしを支えてきたわけですから。
ケンゴ:それは分かる。私も否定しているのではない。あくまで「生活の帳尻」の話だ。
「早く帰りたい」と念じるほど、遅くなる。それは念力が裏返ったのではなく、焦りが視野を狭め仕事を雑にし、やり直しが増えた結果だ。構造の話だと思う。念じる強さが身体をこわばらせているんだ。
サキ:ああ、それはよく分かります。私、育児と仕事をひとりで回していた頃、「早く寝かしつけたい」と思うほど子どもが寝なかったんです。こちらの焦りがそのまま伝わってしまう。手が急ぐと、湯呑みも欠けやすいでしょう。願いの強さって、ときどき手つきを狂わせるんですよね。
シオン:私が思うのは――「小さな願いはすぐ叶い、大きな願いは時間がかかる」とこの方はおっしゃった。けれど本当は、逆かもしれない。すぐ叶うほどの小さな願いは、もともと叶うと分かっているから軽く手放せる。だから「叶う」。裏返るのは、握りしめて放せない願いのほうだ。「早く帰りたい」は、実は相当切実な願いだったのではないだろうか。
ケンゴ:……なるほど。強く願うほど裏返るという本人の観察は、案外正しいわけだ。
シオン:ところで、あなたが「想像したとおりの弟子が来た」とおっしゃったとき、私はふと思った。あなたは願ったのではなく、ただ「よく見ていた」だけなのかもしれないと。
自分に問いかけるロードマップ
- 叶わなかった願いを、私はいくつ覚えているだろうか。覚えていないとしたら、それはなぜだろう。
- 「すぐ叶う願い」と「裏返る願い」を分けているのは、力の強さだろうか。それとも手放せるかどうかの違いだろうか。
- 私が「願った」と呼んでいるものは、未来を動かした瞬間だろうか。それとも、いま目の前にあるものに名前をつけた瞬間だろうか。
- 願いが裏返るとき、私の身体はどんな状態になっているだろう。肩は、呼吸は、手つきは。
本日の羅針盤
シオンからひとつだけ。
願いが叶うかどうかを、何かの力のおかげと考えるのをやめてみてはどうでしょう。あなたの話をうかがっていると、叶うのはいつもあなたが「これは来る」と静かに信じられたもの。裏返るのはあなたが握りしめて眠れなくなったもの。だとすれば、コツというものがあるとしたら――それは「強く願う」ことではなく、「願ったあとに、手を開いていられるか」だろうと思います。
ケンゴの見方も、捨てるべきではないと思います。裏返る現象の多くは、焦りが手元を狂わせているだけ。ならば目に見えぬ力を信じることと、自分の呼吸を整えることは少しも矛盾しません。
サキが言ったように、湯呑みは急ぐ手のなかで欠けます。あなたが煎餅を、弟子を、風通しのいい通りを迎えられたのは、念じたからというより、いつも周りをよく見ていたからかもしれない。信じる力の正体は案外、そういう「まなざしの質」なのではないでしょうか。
答えを一本にはしません。ここから先は次の願いを手放したとき、あなた自身の暮らしが教えてくれるはずですから。





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