母のタンスは、もう空っぽ
あの日から、もう十年が経ちます。
母は七十三歳で、私たちに何の準備もさせないまま、不慮の事故で逝ってしまいました。多趣味で、おしゃれで、物を大事にする人でした。
クローゼットを開けると、夏物と冬物が押し合うようにぎゅうぎゅうに詰まっていて、引き出しの奥から私が小学生だった頃に編んでくれたマフラーまで出てきたんです。
父は母の物に、手を触れることができませんでした。仲が良かったわけではないのに、いえ、良くなかったからこそ、なのかもしれません。だから、片づけは私の仕事でした。心の整理がつくまで、半年ほど待ちました。それから一気に廃棄するもの、売りに出すもの、欲しいと言ってくれた人に譲るものに分けていきました。
私は、片づけが得意なんです。自分の物も季節ごとに見直して、定期的に手放しています。だから母の遺品整理も、時間こそかかりましたが思っていたほど辛くはなかった。「お母さん、これは○○ちゃんが大事にしてくれるって」と心の中で報告しながら、淡々と進めました。
──なのに。
この十年、定期的に同じ夢を見るんです。
夢の中で、母は生きています。
「実は死んだと思って棺に入ったけれど、そこで息を吹き返したの」
そう言って、いつもの台所に立っている。良かった、本当に良かったと私は泣きそうになる。けれど、すぐに気づいてしまうんです。
母のタンスは、もう空っぽだということに。
服が一枚も残っていない。下着も、よそ行きのワンピースも、晩年お気に入りだったカーディガンも、全部、私が処分してしまった。
「お母さん、ごめんなさい。勝手に捨てて、本当にごめんなさい」
夢の中の私は、床に膝をついて謝っています。
でも目が覚めると、不思議なんです。
「なんだ、夢か」
「お母さんが生きてたら、良かったのにな」
「でも、服はもう捨てちゃったし……生き返られても、困るのかな」
そんな自分でも整理のつかない気持ちが、寝起きのぼんやりした頭に、薄い膜のように残ります。
深層心理では、私は服を捨てたことを後悔しているのでしょうか。
夢って、不思議ですね。
「片づけが得意な娘」が、夢の中だけで土下座する理由
サキ:読ませていただいてまず思ったのは、あなた、十年間ずっとお母さんに「報告」をし続けているんですね。
サキ:遺品整理が得意で、ストレスなく片づけられた。それは事実だと思います。嘘ではないですよね。でも、得意だからストレスがなかったというのと、「悲しみが処理できた」というのは別の話なんですよ。片づけのスキルが高い人ほど、感情の整理と作業の整理をつい同じ棚に入れて済ませてしまうことがあるんです。
シオン:夢というのは、起きている時間に追い払った感情が、夜の戸口で待っている場所なのかもしれない。あなたは昼の世界では有能で、淡々と必要なことをこなした。それは正しい振る舞いだったのだろう。けれど捨てた服の一枚一枚に宿っていた、あなたとお母さまの時間は、ゴミ袋の口を縛った瞬間に消えたわけではないはずだ。
サキ:そしてもう一つ気になったのが、「お母さんが生き返ったら困るのかな」という、寝起きのつぶやきです。これ、すごく正直な言葉ですよね。多くの人はこういう気持ちを自分に許さないんです。亡くなった親を想う時に、「困る」なんて感じてはいけない、と。
シオン:けれど、その「困る」の中にこそあなたが十年かけて築き上げた、母のいない暮らしの輪郭がある。
診断:これは「後悔」ではなく、「片づけきれなかったもの」の正体
ここで一度、認知の罠を整理しておきますね。
サキ:あなたは「深層心理では服を捨てたことを後悔しているのか」と問いかけています。でも、夢の構造をよく見ると、少し違う気がするんです。
夢の中で泣いて謝っているのは、「服を捨てたこと」そのものではなく、「お母さんが帰ってくる可能性を自分の手で閉じてしまったこと」への謝罪ではないでしょうか。タンスが空っぽだということは、母の居場所がもうここにはない、ということ。物理的に整えられた空間は、同時に母の不在を完成させてしまった空間でもあるんです。
サキ:あなたは後悔しているのではなく、十年前に「悲しむ前に片づけてしまった」自分を、夢の中で少しずつ取り戻しているんだと思います。
シオン:得意なことは、時に毒にもなる。片づけの早さは、悲しみを置き去りにする速度でもあったかもしれない。けれど、それを責める必要はどこにもない。あなたの夢は責めているのではなく、「まだ感じていいんだよ」と、十年遅れで届いた手紙のようなものではないだろうか。
本質的な結論(P):
あなたが見ているのは「服を捨てたことへの後悔の夢」ではなく、「悲しむ手順を飛ばしてしまった十年前の自分への、やり直しの夢」です。
遺品整理が得意だったあなたは、悲嘆のプロセスを「作業として完了させた」状態で十年を過ごしてきました。けれど悲しみは、作業では終わらない。夢の中で母が生き返り、空のタンスの前で謝るあなたは、「ちゃんと悲しみたかった」という果たされなかった願いを、夜ごと受け取り直しているのです。
後悔する必要はありません。次に同じ夢を見たら、「ごめんなさい」の代わりに「お母さん、会いに来てくれてありがとう」と、夢の中の自分に言わせてみてください。タンスは空でも、あなたの中の母の居場所は、まだ空っぽではないはずです。




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