父は今、どこにいるのだろう
夜中の二時を過ぎた。台所の蛍光灯だけをつけて、冷めかけた麦茶をすすっている。さっきまで読んでいた本を閉じて、天井のシミをぼんやり眺めていた。
父が逝ってから、もう半年になる。葬儀の段取りも、四十九日も、納骨も、自分でも驚くほど淡々とこなした。職場では「しっかりしているね」と言われる。でも、夜になるとふいに考えてしまうのだ。
父は今、どこにいるのだろう。
骨壺の中にいる、というのは違う気がする。あの中にあるのは、たしかに父の体だったものだ。けれど父が父であった「あの感じ」 ― 不器用な笑い方や、晩酌のときの少し低くなる声や、私を呼ぶときの間 ― あれはどこへ行ったのか。煙になって消えたのか。それともどこかで、まだ続いているのか。
住職さんは「極楽浄土に往かれましたよ」と言ってくれた。母はそれで安心したようだった。でも、私はうまく頷けなかった。信じたい気持ちはある。本当にある。けれど同時に、私は理科系の大学を出て、データを扱う仕事をしている。「ある」と言われたら「証拠は?」と思ってしまう自分がいる。
だから、誰かに聞きたかった。気休めではなく、宗教の言葉でもなく、できれば科学の言葉で。死後の世界はあるのですか。それとも、ないのですか。
静かな台所に、二人の声が届く
シオン:「あなたの問いは、とても誠実なものだ。信じたい気持ちと確かめたい気持ちが、同じ胸の中で並んでいる。それを無理に一つにまとめようとしないところに、あなたの強さがあるのかもしれない」
ケンゴ:「率直に答えよう。現代科学が現時点で到達している答えは、『死後の世界の存在を肯定も否定もできない』だ。これは逃げではなく、科学という方法の性質からくる結論だと思う」
シオン:「肯定も否定もできない……」
ケンゴ:「科学が扱えるのは、観測でき、再現でき、検証できる事象だ。脳の活動が止まったあと、意識がどうなるかについては、観測の手段が今のところ存在しない。死から戻ってきて報告できる人はいないからだ。臨死体験の研究はあるが、それは『脳がまだ機能している段階の現象』を見ているにすぎない、というのが多くの神経科学者の見解だろう」
シオン:「つまり、『ない』と証明されたわけではない、ということですね」
ケンゴ:「そうだ。『証拠がない』ことと『存在しない』ことは、論理的にはまったく別の話だ。ここを混同すると、科学の名を借りた断定になってしまう」
気づきのセクション ― 問いの形を、少し変えてみる
あなたが本当に知りたかったのは、「死後の世界の有無」という命題そのものだろうか。それとも「父はもう、どこにもいないのか」という別の問いだろうか。
科学は前者には答えを保留する。けれど後者については、少しだけ言えることがある。
人の記憶は、脳の中の電気信号のパターンとして残るだけではない。あなたが父の声の高さを覚えていること、晩酌の間合いを覚えていること ― それらはあなたという生き物の神経回路の中に、確かに刻まれている。物理的に実在するものとして。
父があなたに与えた影響は、あなたが生きているかぎり、あなたの判断や癖や声色の中で働き続けている。これは比喩ではなく、神経科学的に妥当な記述だ。
「どこにいるのか」と問うとき、私たちは無意識に「空間のどこか一点」を探してしまう。けれどその問いの形そのものが、もしかすると窮屈なのかもしれない。
本質的な結論
死後の世界が「ある」と科学的に証明することも、「ない」と証明することも、現時点では誰にもできません。これは知識の不足ではなく、科学という方法の射程の問題です。
だから信じる人を笑う必要も、信じない自分を責める必要もありません。あなたが夜中の台所で父を思うとき、その思いそのものがすでに、「失われていない何か」の証左ではないでしょうか。問いを抱えたまま生きることは、答えを急ぐことよりもずっと誠実なあり方かもしれません。
もし、悲しみが重すぎるときは
大切な方を亡くしたあとの深い喪失感(グリーフ)は、時間の経過だけでは癒えにくいことがあります。眠れない日が続いたり、日常生活に支障が出ていると感じる場合は、グリーフケアを行っている専門機関や心療内科・精神科への相談もご検討ください。一人で抱え込まないことが何よりも大切です。
参考情報
本章の科学的記述については、神経科学および科学哲学の一般的見解に基づいて構成しましたが、特定の出典を断定的に引用できる範囲を超える内容のため、出典の明記は控えました。臨死体験の神経科学的研究、意識と脳の関係をめぐる議論については、関心のある方はご自身でご確認いただければ幸いです。




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