「世界が嘘っぽい」は病気?離人感・現実感消失を経験したあなたへ

第二章:四つの声、ひとつの問い

アキ──「わかる。私もあるよ、それ」

ねえ、ちょっと聞いてもいい? その感覚が来たとき、身体ってどうなってる?

私もね、似たようなことがあったんだよ。深夜にスマホ見てて、タイムラインがずっと流れてて、ふと「これ全部、誰かが作ったコンテンツじゃん」って思った瞬間、画面の向こうの世界どころか、スマホ持ってる自分の手が他人の手に見えたことがある。ほんの数秒だったけど、すごく気持ち悪かった。

だからね、「おかしいのかな」って不安になる気持ち、めちゃくちゃわかるよ。でもさ、第一章でシオンが言ってたみたいに、デカルトもパトナムも同じこと考えてたわけでしょ。つまりこの疑問って、人間の脳がちゃんと動いてるからこそ出てくるものなんだよね。バグじゃなくて、高性能ゆえの副作用みたいな。

ただ、ひとつだけ気になるのは──この感覚が来たとき、あなたが「面白い」って思ってるのか、「怖い」って思ってるのか。そこの違いは結構大きいと思う。

ケンゴ──「問いの構造を分解しよう」

アキの言う通り、「面白い」と「怖い」の境界線は重要だ。だが、もう少し手前の話をさせてくれ。

相談文を読み返すと、あなたは7つの仮説を並べている。
マトリックス、見えている部分の先は無、外国や宇宙の非実在、自分は既に死んでいる、リアル体験型シミュレーション、水槽の脳、すべてがプログラム。
一見ばらばらに見えるが、構造は全部同じだ。「自分が知覚している世界は、より上位のシステムによって作られたものではないか」。これがひとつの幹で、7つの仮説はその枝に過ぎない。

で、ここからが肝心なんだが──この問いには原理的に答えが出ない。仮にこの世界がシミュレーションだったとして、シミュレーション内部からそれを証明する方法がない。
逆に、シミュレーションではないことも証明できない。つまりあなたは「構造上、解けない問い」に、リソースを注ぎ続けている状態だ。

これは知的な誠実さの表れだと思う。ただ、解けない問いを解こうとし続けると、人間の処理能力はそこに吸い取られる。仕事中にぼんやりする、人の話が頭に入ってこない、眠れない。
もしそういうことが起きているなら、問いそのものの正しさとは別の次元で、実害が出ている。そこは切り分けて考えるべきだろう。

サキ──「あなたの足元にあるもの」

ケンゴさんが「構造上、解けない問い」と言ったのは、たぶん正確ですよね。でも、正確だからといって、それで楽になるかというと、そうでもないんじゃないですかね。

私が気になったのは、この感覚が「いつ来るか」なんです。電車に乗っているとき、テレビを見ているとき、布団に入ったとき──相談文に出てくる場面って、どれも「身体を動かしていない時間」なんですよね。歩いているとき、料理をしているとき、誰かと声を出して話しているとき、この感覚は来ますか?

離人感や現実感の喪失について調べていくと、「身体を介した感覚入力が減ると起きやすい」という臨床的な報告があります。頭だけが回転して、手足や皮膚からの情報が希薄になると、脳が「現実」を組み立てるための材料が足りなくなる。すると、世界のほうが薄くなったように感じる。

だから、もし試せるなら──この感覚が来たとき、氷を握ってみてください。あるいは、冷たい水で顔を洗う。足の裏で床を踏みしめる。
地味ですよね。でも、「世界は本物か」という問いに知的に答えを出すのではなく、皮膚のレベルで「ここにいる」を取り戻す、というやり方もあるんです。

これは治療法でもなんでもなくて、ただの応急処置です。でも、「この感覚が来たとき、自分にできることがひとつある」と思うだけで、無力感の質が少し変わることがありますよね。

シオン──「問いを抱えたまま、生きるということ」

四人の声が出揃ったところで、少しだけ補足をさせてほしい。

あなたの問いに「答えを出してあげる」ことは、誰にもできない。ケンゴが言った通り、それは構造的に不可能だ。しかし、答えが出ないこととその問いに価値がないことは、まったく違う。

禅の世界に「公案」というものがある。「隻手(せきしゅ)声あり、その声を聞け」──片手で鳴らす拍手の音を聞け、という問いだ。
これには正解がない。正解がないこと自体が、この問いの機能だ。解けない問いを抱えたまま座り続けることで、「答えを得なければ安心できない」という思考の癖そのものが揺さぶられる。

あなたが今抱えている「この世界は本物か」という問いも、もしかすると解くべきものではなく、抱えるべきものなのかもしれない。抱えたまま、朝起きて、顔を洗って、何かを食べて、誰かと言葉を交わす。その繰り返しの中で、問いの重さが少しずつ変質していくことがある。
消えるのではない。質が変わるのだ。

ただし──これはサキの言葉を借りるが──抱えること自体が苦しくて、日々の生活がままならないのであれば、それは「抱える」ではなく「押し潰されている」のだ。
その場合は、ひとりで抱え続ける必要はどこにもない。精神科の扉は、壊れた人が入るための場所ではなく、重いものを一緒に持ってくれる人がいる場所だ。

第二章のまとめ

四つの視点から見えたこと:
アキ:この感覚は「脳が壊れたサイン」ではなく、意識が高回転しているときに起きうる現象。ただし、「面白い」と感じるか「怖い」と感じるかで対処の方向性は変わる。

ケンゴ:7つの仮説は構造上ひとつの問いに集約される。そしてその問いは原理的に解けない。解けない問いにリソースを費やし続けることで実害が出ているなら、問いの正しさとは別に対処が要る。

サキ:この感覚は「身体からの入力が減ったとき」に起きやすい可能性がある。冷水や氷など、皮膚感覚を通じて「ここにいる実感」を取り戻す応急処置がある。根本的な対処が必要なら、精神科・心療内科という選択肢は開かれている。

シオン:答えの出ない問いを「抱えたまま生きる」ことは可能であり、問いの質は時間とともに変わりうる。ただし、「抱える」と「押し潰される」は違う。後者なら、助けを求めることは降伏ではなく、戦略だ。

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