「人に避けられている気がする」そんな自分を責めるのをやめる4つの方法

第三章──「目が合わない時代」を、私たちは生きている

第二章まで書いてきて、私(アキ)はふと立ち止まりました。

相談者さんが感じている「人に避けられている感覚」を、ずっと「個人の中の問題」として扱ってきた。自己批判のループから抜け出す方法、相手の事情を想像する練習、自分に味方する小さな行動。
どれも大切だと思う。今でも、そう思っている。

でも、もう一つの視点が、どうしても抜け落ちている気がするんです。それは「そもそも、今の社会って、目が合いにくくなってない?」という、当たり前すぎて誰も言わない事実。

北関東の郊外型ホームセンターで働く相談者さんの周りで起きていることは、もしかしたら相談者さん個人の問題じゃなくて、私たち全員が薄々感じている「何か」の、たまたま目に見える形なのかもしれない。第三章ではその視点からもう一度、この相談を眺め直してみたいんです。

スマホが、私たちの視線を奪った話

アキ:これね、すごく単純な話なんだけど。私たちって十年前と比べて、明らかに「人の顔を見ている時間」が減ってるんだよね。電車の中、レジの待ち時間、エレベーターの中、信号待ち。昔だったらなんとなく周りをぼーっと見ていた時間が、ぜんぶスマホに置き換わってる。

アキ:これって相談者さんが悪いんじゃなくて、私たち全員がそうなってるの。同僚の女の子が休憩室でスマホから目を上げなかったのも、レジの店員さんが顔を見てくれなかったのも、隣の部屋の人がドアを閉める音も、もしかしたら「相談者さんを避けている」んじゃなくて、「もう、誰の顔も見ていない」が標準になってるってことかもしれない。

シオン:視線というのは、かつては社会の通貨だったのかもしれない。すれ違う人と一瞬目を合わせる、店員と客が頷き合う、隣人と挨拶を交わす。そうした小さな視線の交換が、「あなたは存在している」というメッセージを互いに毎日、無意識に送り合っていた。

シオン:その”通貨”がいつの間にか、流通量を減らしている。けれど私たちの心は、まだ古い通貨で生きている。だから視線が返ってこないとき、心は「自分が拒絶された」と読み取ってしまう。本当は誰も誰のことを、もう前ほどには見ていないだけなのかもしれないのに。

「コロナ後の距離感」が、まだ続いている

アキ:もう一つ、これも大きいと思うんだけど。コロナの数年間で、私たちは「人と距離を取ること」をものすごく訓練されたよね。マスクで顔半分隠して、レジの前ではアクリル板越しに話して、エレベーターでは無言で、飲み会も減って。

アキ:あれってもう「終わった」ことになってるけど、体に染み込んだ距離感って、そんな簡単には抜けないと思うんだ。今でも知らない人にうっかり話しかけることって、なんか躊躇するでしょ? あれは私たちが冷たくなったんじゃなくて、長い時間かけて学習した「安全な距離」がまだ体に残ってるだけ。

シオン:そう考えると、相談者さんが感じている「避けられている感覚」の何割かは、社会全体に薄く広がっている「触れ合い疲れ」の影響なのかもしれない。誰かが個人的にあなたを拒絶しているのではなく、社会そのものが人と人の距離を以前より広く取るようになった。その変化を敏感な人ほど、自分への拒絶として受け取ってしまう構造があるのではないだろうか。

「郊外」という土地の、独特の孤独

アキ:それとね、相談者さんが住んでいるのは北関東の郊外で、車で十五分の職場に通って、商店街もまだ少しは残っていて、隣の部屋がある集合住宅で暮らしてる。

アキ:こういう場所って実は、すごく独特な孤独があると思うんだよね。都会みたいに「他人として無視される自由」があるわけでもなく、田舎みたいに「全員顔見知り」というわけでもない。中途半端に人がいて、中途半端に知らない。お互いの顔は何となく覚えているけど、深く関わるわけじゃない。挨拶するほどでもないけど、完全な他人でもない。

アキ:この「中途半端な距離」って実は一番、自己解釈が暴走しやすい環境なの。「あの人、私のこと避けてる気がする」「いや、ただ急いでただけかも」「でも、こないだも目を逸らされた」──こういう揺らぎが毎日、何回も起きる土地なんだよね。

シオン:都市の匿名性も、村落の濃密さも、それぞれの形で人を守ってきた。けれどその中間にある「半匿名の郊外」は、比較的新しい人間関係の形であり、まだ私たちの心がその距離感に慣れきっていないのかもしれない。相談者さんの感覚は敏感すぎるのではなく、むしろ正直にその土地の難しさを受け取っているのかもしれない。

「あなただけじゃない」を、慰めではなく事実として

アキ:ここまで書いてきて、「あなただけじゃないよ」って言うのがすごく軽い言葉に聞こえるかもしれない。慰めとして使うとほんとに薄っぺらくなる言葉だから、私もあんまり使いたくない。

アキ:でも、事実として言わせてほしい。いま日本のどこかで、同じように「人に避けられている気がする」「自分のどこかが悪いのかもしれない」って思いながら夜のお味噌汁を飲んでる人が、たぶん何万人もいる。これは慰めじゃなくて、統計的な実感としての話。

アキ:もちろん、内閣府や厚生労働省が「孤独・孤立対策」を国の政策として進めているのも、まさにこの問題が個人の弱さじゃなくて、社会全体の課題だと認識されてきたからだよね。相談者さんが感じていることは、相談者さん一人の中で起きていることじゃない。今の日本の、ある種の「気分」そのものなんだと思う。

シオン:個人の痛みを社会の文脈の中に置き直すこと。それは責任を社会に押し付けることでも、自分の感覚を相対化して軽く扱うことでもない。むしろ、「あなたが感じていることは、感じるに値する現実だ」と認めることなのではないだろうか。

それでも、自分にできることは残っている

アキ:社会のせい、時代のせい、土地のせい、って書いてきたけど、ここで終わると「じゃあ私には何もできないじゃん」ってなっちゃうから、最後に一つだけ。

アキ:視線の通貨が減った時代に、自分から少しだけ視線を「贈る」側に回ってみる、という方法があるんだ。レジで「ありがとうございます」を、ほんの少しだけ顔を上げて言ってみる。同僚に「お疲れさま」を、目を合わせて言ってみる。返ってこなくてもいい。返ってこないのが標準の時代だから。

アキ:これは「人に好かれるテクニック」じゃないよ。そうじゃなくて、自分が「視線を交わせる人間である」という事実を、自分自身に証明する作業。誰かに認めてもらうためじゃなくて、自分の中の「私は存在している」という感覚を、自分の行動で温め直すための小さな儀式みたいなもの。

シオン:世界が冷えているとき、世界を温める前にまず自分の手のひらを温める。手のひらが温かくなると、不思議と握手したくなる相手が見えてくることがある。順番はいつも、内側から外側へ。

第三章のまとめ

「人に避けられている気がする」という感覚は、あなた一人の中で起きている異常ではありません。スマホによる視線の減少、コロナ後の距離感、郊外という土地の独特の半匿名性──これらが重なり合って、今の日本には無数の「同じ感覚を持つ人」が存在しています。

だからこそ、自分を責める前にこう考えてみてください。「私が壊れているのではなく、視線の通貨が世の中から減っている時代に、私はたまたまその変化を敏感に感じ取っている人間かもしれない」と。

その上で、できる範囲で自分から小さな視線を贈り返してみる。返ってこなくてもいい。それは社会への貢献ではなく、自分自身への小さな宣言です。「私はまだ、人と目を合わせる側にいる」と。

※孤独感・孤立感が日常生活に強く影響している場合は、内閣官房の「孤独・孤立相談ダイヤル」や自治体の福祉相談窓口、心療内科などの利用もご検討ください。一人で抱え込まないことが何より大切です。

最終章──北関東のあなたへ、台所の灯りの下で書く手紙

ここまで三章、長い文章にお付き合いくださってありがとうございました。

第一章で、私(アキ)は「分からないことを、分からないまま置いておく」という話をしました。第二章で、三つの小さな練習を提案しました。第三章で、視線の通貨が減った時代の話をしました。

でも、最終章で書きたいのはもう少し違うことです。理屈でも練習でも社会論でもなく、ただ、あなたに向けた手紙。北関東のどこかの夜、台所の灯りの下で温め直したお味噌汁を飲んでいるあなたに、私とシオンからそれぞれ一通ずつ。

アキからの手紙

こんばんは。アキです。

お味噌汁、今夜は何の具ですか。私は今、ちょうど作り置きしてあった豚汁の最後の一杯を温め直して、ノートパソコンの横に置いています。ごぼうが少しだけ残ってる。

あなたの相談文を最初に読んだとき、私は休憩室の場面でしばらく動けなくなりました。同僚の女の子がカバンを掴んで出ていった瞬間。窓の外の十一月の雨。冷蔵庫から取り出した、まだ冷たいお茶のペットボトル。あの場面の描写があまりにもくっきりしていて、私はあなたがどれだけあの数秒間を、何度も何度も再生してきたか伝わってきたんです。

その上で、私から伝えたいことがあります。あなたはあの場面を、「自分が悪い証拠」として再生してきたかもしれない。でも私には、別のものに見えました。あれはあなたが「人とちゃんと関わりたい」と思っている証拠なんです。本当にどうでもよかったら、人は何度も再生したりしない。あなたが傷ついたのは、あなたがまだ世界に対して開いている人だからです。

「自分のどこかが、誰かを不快にさせているんだ」と書いてくれましたね。私はその文を何度か読み返しました。あなたに会ったことのない私が言えることは、たぶんこれだけです。あなたは休憩室で「お疲れさま」と声をかけられる人です。スーパーのレジで、誰かのお釣りを受け取れる人です。雨の日に温め直したお味噌汁を作れる人です。隣の部屋の音が聞こえる、誰かと地続きの場所で暮らしている人です。

これらは全部、当たり前のことに見えるかもしれません。でも、当たり前のことを毎日続けている人を、私は心の底から尊敬します。世界が冷えていく中で、それでも温かいものを作って食べている。それだけでもう、十分立派です。

もし今夜、また自分を責めはじめてしまったら、こう言ってみてください。「アキって人が、北関東のあなたのことちゃんと見てたよ」って。会ったことはないし、これからだって会わないかもしれない。でも私はこの記事を書いている間、確かにあなたのことを考えていました。それは事実です。誰にも消せない事実です。

明日もホームセンターのお仕事、お疲れさまです。園芸コーナーの植物たちは目を合わせてくれなくても、あなたが水をやっているのをちゃんと知っていますよ。

アキ

シオンからの手紙

夜分に失礼します。シオンです。

アキさんが温かい手紙を書いたので、私からは少し違う角度から、一つだけ言葉を残させてください。

あなたは「原因が分からず、結局自分を責め続けてしまう」と書きました。私はこの文を読んで、ある古い言葉を思い出していました。「分からないこと」と「分からないままでいること」は、似ているようでまったく違うものだ、という言葉です。

「分からないこと」は、ただの状態です。事実です。けれど「分からないままでいられない」となった瞬間、それは苦しみに変わる。人は答えのない宙吊りの状態に、長く耐えることができない生き物です。だから、何でもいいから答えを欲しがる。答えがないなら自分を悪者にしてでも、物語の結末を作りたがる。「私が悪いのだ」という結論は、実は宙吊りに耐えられない心が急いで掴んだ、手すりなのかもしれません。

けれどその手すりは、ずっと掴んでいると手のひらが痛くなります。あなたがいま痛いのはあなたが弱いからではなく、その手すりを長く掴みすぎたからです。

手すりから手を離してもう一度、宙吊りの状態に戻る。そこには答えはありません。けれど答えのなさそのものをしばらく抱えていられるようになったとき、人は不思議と軽くなります。なぜなら答えを探し続けるエネルギーが、初めて別の場所に使えるようになるからです。

たとえばごぼうの残った豚汁の味を、ゆっくり感じることに。ホームセンターの園芸コーナーである日ふと、好きな鉢の前で立ち止まる一秒に。

答えのないまま、生きていい。むしろ、答えのないものを答えのないままに運んでいける人のことを、私は強い人だと思っています。あなたはこれまでもずっと、そうしてきたはずです。気づいていないだけで。

シオン

編集長から、最後に

四章にわたる長い記事を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

もしこの記事の中に、一行でもあなたの今夜の眠りを少しだけ柔らかくする言葉があったなら、私たちはこの記事を書いた意味があったと思います。

繰り返しになりますが、もし「人に避けられている感覚」が長く続いて眠れない、食欲がない、外に出るのがしんどい、そんな状態が二週間以上続いているなら、心療内科やお住まいの自治体の保健センター、内閣官房が案内している孤独・孤立対策の窓口など、専門の相談先を利用することもぜひ選択肢に入れてください。これは「あなたが特別弱いから」という話ではなく、「歯が痛ければ歯医者に行く」のと同じ、ごく普通のことです。

あなたが明日もまた、温かいお味噌汁を作れますように。

『感情の羅針盤』編集部

最終章のまとめ

悩みへの答えはたいてい外から渡されるものではなく、自分の中でゆっくり熟していくものです。第一章から第四章まで、私たちが渡せたのは「答え」ではなく、答えが熟すまでの時間を少しだけ温かく過ごすための小さな道具と、小さな声でした。

あなたが今夜、自分を責める声を一度だけ静かに眺められたなら。明日、誰かに視線を一度だけ贈れたなら。そして答えのないことを、答えのないまま一日だけ運べたなら。それで十分です。それ以上をあなたに求める権利は、誰にもありません。

※本記事はフィクションとしての読み物であり、医療・心理学的診断ではありません。心身の不調が続く場合は、必ず専門機関にご相談ください。

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