第三章:留まるか、動くか ―― 四つの視点で考える分岐点
棚卸しのノートは、気がつけば五ページを超えていた。書きながら私は、二つのことに気づいた。
一つは、思っていたよりずっと色々なことをやってきたということ。もう一つは、それでもなお「このまま今の職場で続けていくのか」という問いには、まだ答えが出ないということだった。
転職した方がいいのか。今の場所で工夫すべきなのか。ノートを閉じて、コーヒーを淹れ直す。窓の外は、もう暗くなり始めていた。
たぶん、この問いに「正解」はないんだと思う。でも、判断するための物差しくらいは欲しい。
四人それぞれの「判断軸」
ケンゴ:ここからは具体的な話に入ろう。転職すべきか、留まるべきか。この問いに対して、私は四つの判断軸を提示したい。それぞれ、私たち四人の視点から一つずつだ。
アキ:お、それわかりやすい。みんな違う角度から見るってことだね。
軸1:ケンゴの視点 ―― 「市場価値」と「機会費用」
ケンゴ:私から言わせてもらえば、判断の最初の軸は「市場価値」だ。今の職場に留まり続けた場合、五年後の自分は転職市場でどう評価されるか。逆に今動いた場合、どんな選択肢が広がるか。これを冷静に見積もる必要がある。
サキ:市場価値というと、なんだか冷たく聞こえますけど。
ケンゴ:冷たく聞こえるのは承知している。だが、これは自分を商品扱いするという意味ではない。自分の労働力に正当な値段がついているかを確認するという、当然の作業だ。10年同じ職場にいると、自分の相場感覚が鈍る。一度転職サイトに登録して、どんな求人が自分にマッチングされるかを見るだけでも相場が分かる。応募する必要はない。
シオン:応募しないで見るだけという距離感が、ちょうどよいのかもしれませんね。
ケンゴ:そうだ。そして「機会費用」も考えるべきだ。今の職場に残ることで失っている可能性は何か。逆に転職することで失う安定や人間関係は何か。どちらにも失うものはある。それを天秤にかける作業を避けて、勢いだけで決めてはいけない。
軸2:アキの視点 ―― 「日曜日の夜の気分」
アキ:わたしの軸はもっと感覚的なんだけど、けっこう大事だと思ってて。それは「日曜日の夜の気分」。
サキ:あ、わかる気がします。
アキ:明日仕事だなって思ったとき、胃がキュッとなるか、まあ普通に明日かって思えるか、ちょっとだけ楽しみなことがあるか。この三段階のどこにいるかで、けっこう状況がわかると思うんだよね。
ケンゴ:体感的な指標だが、軽視できない。日曜の夜に強い不安や憂鬱を感じる状態が長期間続くようなら、それは身体からの警告サインだ。
アキ:そう。「胃がキュッとなる」が三ヶ月以上続いてるなら、それはもう環境を変えた方がいいサインだとわたしは思う。「まあ普通」なら、今の場所で工夫する余地がまだある。「ちょっと楽しみ」があるなら、それは大事に育てた方がいい芽だよ。
シオン:身体の声というのは、頭で考える前に答えを知っているところがありますね。
軸3:サキの視点 ―― 「五年後の生活の絵」
サキ:私の軸はもう少し生活寄りなんですけど。「五年後の自分の生活の絵が、具体的に描けるか」ということを考えてみてほしいんですよね。
アキ:生活の絵?
サキ:はい。仕事のことだけじゃなくて、五年後の自分がどこに住んで、誰と過ごして、休日に何をしているか。朝起きて何を食べて、夜どんな気持ちで眠っているか。そういう、地に足のついた絵です。
ケンゴ:キャリアの絵ではなく、生活全体の絵か。
サキ:そうなんです。仕事は人生の一部であって、全部じゃないですよね。今の職場に留まったときの五年後の生活と、転職したときの五年後の生活。両方を絵にしてみて、どちらが「自分の暮らし」として腑に落ちるか。それが案外、バカにできない判断材料になるんですよ。
アキ:あー、それいいな。仕事だけで考えると焦るけど、生活全体で考えると見える景色が変わるかも。
サキ:転職して年収が上がっても、家に帰って疲れ果てて何も食べられない日々なら、それは私にとっては正解じゃないんです。逆に今の職場で給料が変わらなくても、夜にゆっくり本を読める時間があるなら、それは守る価値のあるものかもしれない。何を大事にしたいかは、人によって違いますから。
軸4:シオンの視点 ―― 「十年後に振り返ったとき、後悔の少ない方」
シオン:最後に、私からもう一つ。判断に迷ったとき、私が時々考える問いがあります。それは「十年後この瞬間を振り返ったとき、どちらの選択をした方が後悔が少ないだろうか」という問いです。
ケンゴ:未来から現在を見る、という視点だな。
シオン:はい。今この瞬間に立っていると、損得や不安に目が曇りがちです。けれど、十年後の自分の眼差しを借りてみると、案外「あのとき、動いておけばよかった」という後悔と、「あのとき、焦って動かなくてよかった」という安堵が、意外なバランスで見えてくる。
アキ:未来の自分を、判定の人にするんだ。
シオン:判定というよりは、相談相手として呼んでみるという感覚です。十年後のあなたが今のあなたの肩に手を置いて、何を言ってくれるか。その声に耳を澄ませてみる。それは案外、的を射ていることが多いのではないだろうか。
四つの軸を、どう使うか
ケンゴ:四つの軸が出揃った。整理しておこう。市場価値と機会費用、日曜日の夜の気分、五年後の生活の絵、十年後の自分の眼差し。これらを一つずつ、自分に問うてみる。すべての軸が同じ方向を指すなら、その方向に進めばいい。バラバラなら、もう少し時間をかけて考える価値がある。
サキ:大事なのは、「どれか一つの軸だけで決めない」ということですよね。市場価値だけで決めると、生活が崩れる。気分だけで決めると、現実が追いつかない。複数の軸で見ることで、判断の解像度が上がるんだと思います。
アキ:あと、急いで答えを出さなくていいってことも、大事だよね。
シオン:その通りです。判断を急ぐと、判断自体が不正確になる。十分な情報と十分な時間を、自分に許してあげてください。
気づきのセクション ―― 「決められない」ことは、悪ではない
相談者は「転職した方がいいかどうか」という問いを抱えていました。けれど、この章でお伝えしたいのは「今すぐ決めなくていい」ということです。
四つの軸で自分を見つめ直し、それでも答えが出ないなら、それは「まだ決めるべき時ではない」というサインかもしれません。決断には機が熟すまでの時間が必要です。情報を集め、自分の感覚を確かめ、いくつかのシナリオを頭の中で歩いてみる。その過程そのものが、すでに判断の一部です。
「決められない自分」を責める必要はありません。むしろ慎重に判断しようとしている誠実さの表れだと、捉え直してみてください。
第三章の結論:転職するか留まるかの判断には、四つの軸がある。ケンゴの「市場価値と機会費用」、アキの「日曜日の夜の気分」、サキの「五年後の生活の絵」、シオンの「十年後の自分の眼差し」。
これらを一つずつ自分に問い、すべてが同じ方向を指すなら動けばいい。バラバラなら、まだ決めるべき時ではない。判断を急がず、自分に十分な時間を許すこと。それが後悔の少ない選択につながる唯一の道筋だ。




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