最終章 ―― 数えなおした、その先で
それから数週間が過ぎた。
私は地域の相談窓口に電話をかけた。受話器を握る手が汗ばんでいた。何を話せばいいのか分からず、ただ「介護をしていて、自分が怖いんです」とだけ言った。相手はそれ以上を急がず、「よく電話してくださいましたね」と言った。その一言で、なぜか喉の奥が詰まった。
数日後、私は精神科の予約を取り、あの「割り込んでくる考え」のことを初めて自分以外の人間に、順を追って話した。医師は驚きもせず、責めもしなかった。それは私が長いあいだ、たった一人で「言ってはいけないこと」として飲み込み続けてきた言葉だった。
父の粥は、今日も湯気を立てている。あの考えはまだ時々ちらつく。けれど私はもう、それを数えるのをやめた。代わりに無事に届いたスプーンの数を、心のどこかでそっと数えている。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:「よく電話してくださいましたね」──この一言で喉が詰まったという場面。私はここが、この物語のいちばん大切なところだと思うんです。あなたはずっとこの気持ちを、「言ってはいけないこと」として一人で抱えてきた。それを外に出せた瞬間に、初めて涙が出た。ずっと張りつめていた糸がほんの少しだけ、ゆるんだ音がしたんですね。
アキ:受話器を握る手が汗ばんでたって描写、すごくリアルだよね。電話一本かけるのに、この人どれだけ勇気を振り絞ったんだろうって。でもさ、かけたんだよ。怖いまま、汗かきながら、それでもかけた。それってあの日、「スプーンを皿の縁に置いた」のと同じ手だと思うんだ。踏みとどまる手が、今度は助けを求める手になった。
サキ:本当にそうですね。しかもその考えが、「まだ時々ちらつく」と正直に書いていらっしゃる。私はここに嘘がないのに安心しました。相談したから消えた、めでたしめでたし──ではないんです。考えは残っている。でも、それとの付き合い方が変わった。一人で抱えるものから、専門家と一緒に見ていくものへと。この違いは暮らしの中では、とても大きいんですね。
シオン:……私はあなたが最後に書いた一行に、長く目を留めていた。「無事に届いたスプーンの数を、そっと数えている」。あなたは数える対象を変えた。それは世界の見え方そのものを変えたということだ。同じ台所、同じ湯気、同じ手。何一つ変わっていない。変わったのは、あなたが何を見つめるかだけだ。人が救われるというのは案外、環境が変わることではなく、まなざしの向きが変わることなのかもしれない。
アキ:うん。だからね、これを読んでる人にも言いたい。いま怖い考えに数を数えられてる人がいたら──その手はまだ、あなたの手だよ。皿の縁に置くことも、受話器を取ることもできる手。まだ間に合う。
サキ:ええ。そしてもし電話をかける勇気がまだ出なくても、それでいいんです。この物語の人だって汗をかいて、ためらって、やっとかけた。あなたのペースで大丈夫。ただ、一人では抱え続けないでほしい。それだけは何度でもお伝えしたいんです。
自分に問いかけるロードマップ
- 私が今、「言ってはいけないこと」として一人で飲み込んでいる言葉は何だろう。それをたった一人責めない誰かに手渡すとしたら、最初のひと言はどう始まるだろう。
- 「相談したのに考えが消えない」ことを、失敗だと思ってしまわないだろうか。付き合い方が変わることと消えてなくなることは、別のゴールだと私は知っているだろうか。
- 今日の私は何を数えて眠りにつくだろう。恐れた回数だろうか。それとも、無事に届いた優しさの回数だろうか。
本日の羅針盤
三章にわたって、一つの物語に寄り添ってきました。最後に残したいのは、これだけです。
サキは伝えます。相談とは怖い考えを消す魔法ではなく、一人で抱えていたものを「一緒に見ていくもの」へと変える営みだ、と。だから考えが残っていても、それは失敗ではない。
アキは背中を押します。踏みとどまる手は、助けを求める手にもなる。まだ間に合う。あなたのその手は受話器を取れる、と。
シオンは静かに残します。人が救われるのは環境が変わることより、まなざしの向きが変わることなのかもしれない、と。同じ台所、同じ湯気。変わるのは、あなたが何を見つめるかだけ。
あなたは加害者ではありません。加害を誰よりも恐れ、毎回それを退けてきた「番人」であり、そして今、その重さを一人で背負うのをやめようとしている人です。恐ろしい考えの数ではなく、無事に届いた優しさの数を。どうか今夜から、そちらを数えてみてください。そしてその数えなおしをあなた一人にさせないために――専門機関というもう一つの手が、必ずあります。
――物語はここで一度、幕を下ろします。けれどあなたの毎日は続いていきます。湯気の立つ台所で明日もまた、あなたの手が誰かに優しく届きますように。
専門機関への相談のご案内 自分や大切な人を傷つけてしまうのではないかという考えが繰り返し浮かび、強い苦痛を感じている場合は、一人で抱え込まず、精神科・心療内科、または自治体の精神保健福祉センター・保健センターにご相談ください。「何を話せばいいか分からない」状態のままで構いません。まず電話をかける、それだけで十分な最初の一歩です。眠れない・食べられない状態が続く場合は、早めの受診をおすすめします。




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