知ってしまった人の顔で、味噌汁をよそう
あれから二週間たって、また実家に行きました。娘の水着を母が縫い直してくれるというので、断る理由がなかったんです。
玄関を上がった瞬間から、自分の顔が自分のものではなくなる感じがありました。父はいつもの席で新聞を広げていて、こちらを見て「暑いな」と言った。私は「暑いね」と返した。それだけのやりとりに、なぜか三秒くらいかかった気がします。
昼に母が味噌汁をよそって、私が運びました。椀を父の前に置く。そのとき、自分の手が少し高い位置から置いたのが分かりました。ほんの数センチです。誰も気づいていない。でも私は気づいた。この数センチが、これから何年も続くのかと思いました。
娘は父の膝の横に座って、山の話をせがんでいました。父は前と同じように、途中の売店の話をしていた。父があの人に話したのと同じ話です。同じ声で、同じ順番で。私はそれを、台所の入口に立って聞いていました。
帰り道の車の中で、娘が「じいじ、やさしいね」と言いました。私は「そうだね」と言いました。嘘ではないのが、いちばん困ります。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:この数センチの話を、私は長く覚えていると思います。人が壊れるのは大きな決断のときではなくて、こういうところなんですよね。お椀を置く手の高さが変わる。それは意志ではなくて、体が先に判断している。あなたはもう、選ぶ前に体で選び始めているんです。
ケンゴ:私はそこに、少し違う読み方をしてみたい。手が数センチ高くなったというのは感情が漏れた証拠であると同時に、それでもお椀を運んだという事実でもある。あなたは自分を「限界に近い」と読んでいるかもしれないが、私が見るかぎりあなたは相当に持ちこたえている。問題は、持ちこたえられる人ほど、周囲から負荷を追加されるということだ。今回は水着の縫い直しだった。次は父の通院の付き添いかもしれない。
サキ:ケンゴさんの言うことも分かります。ただ──「持ちこたえている」と評価してしまうと、この方はまた自分に耐久性の見積もりを上乗せしてしまいますよね。私はむしろ、逆のことを申し上げたいんです。あなたはあの家でよくやっているのではなくて、あの家に行くと消耗している。それだけをまず、事実として認めてほしいんですね。
ケンゴ:耐久性の評価が新たな義務になる、その指摘は受け取る。私が言いたかったのは称賛ではなく警告だ。だから具体的に問う。実家に行った日の夜、翌朝の起床がつらいか。娘さんに対して普段より言葉が短くなるか。二週に一度が三週に一度になっていないか。回数と回復時間を記録として見ておくといい。感情の話ではなく、稼働率の話として。
サキ:それは生活に置ける形ですね。カレンダーに小さな印をつけるだけでも、後から見えるものが変わりますから。でも順番だけは譲りたくないんです。記録は自分を管理するためではなく、自分に許可を出すためのものだということ。三週に一度になっていたらそれは怠けではなく、必要な調整だった、と読むための記録です。
シオン:私が気になったのは、娘さんが「やさしいね」と言い、あなたが「そうだね」と答えた場面だ。あなたはそれが嘘ではないことに、困っていると言う。そこにこそ、あなたが本当に抱えているものがあるように思う。
人はひとつの顔しか持てないと信じているとき、矛盾は嘘になる。ひとつの人間が複数の顔を持ちうると知っているとき、矛盾はただの事実になる。あなたの父はやさしい祖父であり、誓いを折った男だ。その二つは同時に成り立ってしまう。それを認めることは、許すこととは違うのではないだろうか。
サキ:ええ。そこを混ぜてしまうと、しんどくなりますよね。「認める」と「許す」と「元に戻る」が、ぜんぶ同じ引き出しに入っているように感じてしまう。でも、別々の引き出しなんです。認めるだけして、あとの二つは開けないままにしておいていい。
自分に問いかけるロードマップ
- 実家に行った翌日、自分の言葉は短くなっていないか。相手は誰に対して短くなっているか。
- あなたが「行かなければならない」と感じている用事のうち、実際に断ったら誰が困るのか、名前を挙げてみる。挙げられない用事が、いくつかあるはずだ。
- 「やさしいじいじ」と「誓いを折った父」を同じ一人の人間として並べたとき、どこに耐えがたさが出るか。人物にか、それとも人はそうなりうるという事実にか。
- 認める/許す/元に戻る。この三つのうち、あなたが今やってもいいと思えるのはどれか。どれも選ばなくてもいい。
本日の羅針盤(第二章)
サキの立場から。あなたは今、あの家で「知ってしまった人の顔」を隠す作業をしています。それは労働です。労働には報酬か休息のどちらかが必要で、今のあなたにはどちらも支払われていません。だから行く回数を減らすことを、罪の側に置かないでください。距離は、関係を切るための道具ではなく、関係を続けるための道具にもなります。
ケンゴの立場から。感情ではなく稼働率で見ること。訪問の頻度、翌日の回復、家庭内での言葉の量。三つを記録し、悪化の傾きが出たら理由を説明せずに間隔を空ける。説明しない権利はあなたにある。
シオンの立場から。ひとつの人間が矛盾したまま存在することを、あなたはこれから何度も見ることになる。父において先に見てしまったのは、順番の不運にすぎない。認めることは許すことの手前で止まっていられる。
家族の中に話せる相手を持てない状態が長引くと、体の側から先に音を上げることがあります。眠りが浅い、実家の話題で胸が詰まる、そうした感覚が続く場合は、自治体の家族相談窓口や公認心理師によるカウンセリングなど、専門機関への相談もご検討ください。




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