折れた誓いの前で、自分の誓いを立て直す
八月の終わりに、母から電話がありました。父のことではなく、庭の柿の木を切るかどうかという話でした。三十分ほど話して、切るのはやめようという結論になって、切る前に一度、娘に実をとらせてやりたいと母が言いました。
電話を切ったあと、私は台所に立ったまま少し動けませんでした。母は何も知らない。この人は、来年の柿の話をしている。私はその隣で、来年もこの秘密を持っているのだろうかと考えていました。
それから自分でも、意外なことを思いました。私は父を軽蔑していますが、母を哀れんではいないのです。母は柿の木のことで三十分も真剣に話せる人で、それは弱い人のすることではない。私が黙っているのは母が弱いからではなく、私が引き受けると決めたからだ。そう考えたとき、少しだけ息がしやすくなりました。
実家に行く回数は、月に二回から一回に減らしました。理由は言っていません。母は「忙しいのね」と言って、それ以上聞いてきませんでした。
ひとつだけ、まだ引っかかっていることがあります。私は娘に、いつか同じことを言うだろうかということです。お母さんは絶対にしない、あなたに同じ思いはさせない、と。父が言ったのと同じ言葉を。あの言葉が折れるのを見てしまった私が、それを口にできるのかどうか。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:柿の木の三十分。その三十分が、この方をずいぶん遠くまで運びましたね。お母さまを哀れんでいない、と気づけたところです。私はここが、この二か月でいちばん大きな移動だったと思うんですね。哀れみは相手を自分より下に置かないと成立しませんから。あなたはそれをしなかった。だから黙っていることが隠すことから預かることに変わったんです。
ケンゴ:私も、月二回から一回への変更を評価したい。理由を説明せずに間隔を空け、相手が「忙しいのね」で処理してくれた。これは運がよかったのではなく、あなたが説明しなかったから成立したのだと私は見る。説明を加えれば、相手は必ず内容を検討しはじめる。黙って減らすことが、いちばん波を立てない。
サキ:ええ、そこは同意します。ただ、最後の問いについてはケンゴさんとは違う入口から入りたいんですね。娘さんに「お母さんは絶対にしない」と言えるかどうか。この方はその一文を言えるかどうかで、自分の誠実さを測ろうとしていますよね。私はそこが少し心配なんです。
ケンゴ:私の考えを先に言う。言わなくていい。誓いは口にした瞬間に、他人への担保になる。父親はおそらく、口にしたことで安心してしまったのだ。人は宣言すると、達成の一部を先に受け取ってしまう。だから私は、娘さんに何も約束しないことを勧める。約束の代わりに、記録の残る行動を積むほうが確実だ。
サキ:ケンゴさんのおっしゃることは分かります。ただ──それでは、子どもに何も渡せなくなってしまいませんか。子どもは行動の蓄積を読めません。読めるのは言葉です。娘が小さいころ、私は完璧な母でいようとして寝込んだことがありますけれど、あのとき伝わっていたのは努力の総量ではなくて、私が布団の中で言った短い一言だけでした。言葉には行動が届かないところに届く力があるんですよね。
ケンゴ:では、こうしよう。約束はしない。ただし、事実は伝える。私が言う「記録の残る行動」とは、家庭内での言動の一貫性のことだ。それを娘さんが十年後に振り返れる形で残す。一方でサキさんの言う一言は、約束ではなく態度の表明として渡す。この二つは矛盾しない。
サキ:それなら私も受け取れます。約束ではなく、態度。「絶対にしない」ではなく、「あなたに嘘をつかない人でいたい」でしょうか。願いの形にしておくと、折れても嘘にはなりませんから。
シオン:私はあなたの最後の問いを、もう一段ずらしてみたい。あなたは折れた誓いを見てしまった者に誓う資格があるのかと問うている。
しかし、誓いというものはそもそも守れる保証があるから立てるものだろうか。守れないかもしれないと知っていて、それでも立てる。その不確かさを引き受けることが、誓うという行為の中身なのではないだろうか。
あなたの父が軽かったのは、誓ったことではない。折れる可能性をはじめから考えていなかったことのほうだ。あなたはすでに、その可能性を知っている。知っている人が立てる誓いは、知らない人が立てるものよりいくらか重い。
自分に問いかけるロードマップ
- あなたが「引き受けた」と決めたのは、いつまでのことか。期限を決めない引き受けは、いつか義務に変わる。一年後の同じ季節に、もう一度考え直す約束を自分としておけるか。
- 娘さんに渡したいのは約束か、態度か、それとも何も渡さないことか。三つのうち、今日の自分が選べるものはどれか。
- 実家に行く回数を減らしたことをあなたは今、どう呼んでいるか。「逃げた」と呼んでいるなら、その呼び方は誰から借りたものか。
- 父を軽蔑したまま、祖父としての父を娘に会わせ続けることはあなたの中で成立しているか。していないなら、どこが軋(きし)んでいるか。
本日の羅針盤(結び)
サキの立場から。あなたはこの二か月で、隠す人から預かる人に移りました。同じ沈黙でも、姿勢が違います。預かるものには置き場所が必要ですから、家庭の外にこの話をできる相手をひとりだけ確保してください。ひとりでいいんです。娘さんにもご主人にも、母にも背負わせない場所がひとつあれば足ります。
ケンゴの立場から。距離は説明せずに調整すること。訪問頻度は下げたまま維持し、必要が生じたときだけ上げる。そして娘さんには約束をしない。約束の代わりに、十年後に振り返れる一貫性を残す。それが父親に対して感じた失望を繰り返さないための、最も確実な方法だと私は考える。
シオンの立場から。折れる可能性を知りながら立てる誓いは、知らずに立てるものより重い。あなたはもう、その重さを持てる場所に立っている。父が軽かったのは誓ったことではなく、折れる自分を想像しなかったことだ。あなたは想像した。それだけであなたの誓いは、父のものとは別のものになる。
三つのどれも採らなくてかまいません。どれかひとつを持ち帰って、来年の柿の季節にもう一度開いてみてください。
なお、家族の中に話せる相手を持てない状態が長く続くと、身体の側から先に負荷が出ることがあります。眠りが浅い、実家の話題で胸が詰まる、休日に体が動かない。そうした状態が二週間以上続く場合は自治体の家族相談窓口や公認心理師によるカウンセリングなど、専門機関への相談もご検討ください。




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