除湿機の音がする台所で、私は黙ることを選んだ
六月の日曜、実家の台所は湿っていました。除湿機がずっと低い音を立てていて、流しの三角コーナーからかすかに酸っぱい匂いがしていた。父に呼ばれたんです。六十二になってようやくタブレットを買った父が、初期設定ができないと言うので。
写真の移行がうまくいっているか確かめようとしてフォルダを開いたら、スクリーンショットが並んでいました。トーク画面の。相手は名前で呼ばれていて、父も名前で呼ばれていた。仕事で知り合った人らしく、若い相手ではなさそうでした。会いたい、次はどこへ行く、そういう文字が、私が撮った娘の運動会の写真の隣に保存されていた。
思い返せば、兆候はいくらでもあったんです。三か月ほど前から髪を短く整えるようになって、通販の段ボールが増えて、ベランダで長い電話をするようになった。スタンプの使い方を私に聞いてきたし、私が山を登るのを知っているから、道具のことや山の途中の売店の名物のことをやたら細かく聞いてきた。その話がそのまま、トークの中にありました。父はあの人に話すために私から材料を集めていたのか。そう思った瞬間、金属でも口にしたような気分になりました。
私は三十四歳。パートで印刷会社の経理をしていて、夫と小学二年の娘がいます。夫婦の間が冷えることがあるのは知っているし、父も人間だというのも分かる。父としても仕事としても、最低限のことはやってきた人です。だから正直、父の勝手にすればいいと割り切ることは一応できています。
ただ、母には言いません。事が大きくなると面倒だし、私が言った瞬間に母の五十年が壊れる。それと、私の娘です。あの子は「じいじ」が本当に好きで、山の話を聞きたがる。あの子に行き場のない失望みたいなものを味わわせたくない。
いちばん許せないのは父が昔、自分の父親が女をつくって家を出た話を私にしたときのことです。あのとき父は、自分が子どものころ心底嫌だったから自分は絶対にしない、子どもに同じ思いはさせないと言った。あれは何だったのか。誓いをこんなに簡単に折れるものとして扱えるのか。その意志の軽さにこそ、私は失望しています。
母が隣の部屋で寝ている時間に、あの人が甘い文字を打っていたと考えると、正直気持ちが悪いです。もう顔も見たくない。
こういう場合、みなさんはどう考えて、どう動きますか。誰にも話さず、自分の中にしまっておくのがいちばんいいのでしょうか。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:まず、台所の湿った空気のところで、私は一度止まりたいんですね。指がタブレットの画面に触れて、スクリーンショットが並んでいるのを見た。その数秒で、あなたは娘さんのことも、お母さまのことも、全部同時に計算しはじめたはずですよね。しんどい役目を、誰にも頼まれないまま引き受けてしまわれた。
ケンゴ:私が気になるのは、その役目に期限がないことだ。秘密には維持コストがかかる。あなたは今後、実家に行くたび表情を管理し、娘さんが「じいじ」の話をするたび一瞬息を止めることになる。それを何年続けるのか。
私は「言うべきだ」とは言わない。ただ、いずれ別の経路で母親が知る可能性は決して低くない。そのとき「知っていて黙っていた娘」としての準備があるかどうかは、今のうち考えておいたほうがいい。
サキ:ケンゴさんのおっしゃることは分かります。ただ──その「準備」って、この方の生活のどこに置くんでしょうね。パートの経理で、小学二年生のお子さんがいて、日曜には実家の設定を頼まれる人の一日に、空いた時間はほとんどないんですよ。五年後から逆算する体力がある人と、明日の朝お弁当を作れるかどうかで一日が決まる人とでは、同じ助言が違う重さになってしまいますよね。
ケンゴ:私の言葉が足りなかった。生活が回らない選択を勧める気はない。私が言いたいのは逆で、余裕がないからこそ、突然の展開に巻き込まれたときに最も損をするのはこの方だということだ。
準備というのは、離婚だとか対決だとかではない。「もし母が自分で気づいたら、自分は何と言うか」を一度だけ言葉にしておく。それだけでも、後の消耗はかなり違う。
サキ:……ええ、そこは同じ方向を見ていますね。一文だけ決めておくというのは、生活の中に置ける大きさです。私が付け足すなら、その一文は「お父さんを守る言葉」でも「お母さんを守る言葉」でもなく、自分を守る言葉でいいということです。私はあのとき言えなかった、それでも家族を続けたかった。そう言える自分を、今から確保しておく。
シオン:私が引っかかっているのは、失望の宛先だ。あなたが折れたと感じているのは父という人ではなく、かつての言葉のほうだ。子どもの自分を傷つけたものを繰り返さないと決めた人が、それでも繰り返した。意志が弱かったのか、誓いとは「守れる人だけが立てるもの」ではなかったということか。
人はいちばん恐れているものの形に、なぜか近づいてしまうことがある。父の誓いが嘘だったのなら、あなたは怒ればいい。守れなかったのなら、そこに残るのは怒りとは少し違うものかもしれない。
自分に問いかけるロードマップ
- あなたが本当に守りたいのは、娘さんの「じいじ」なのか、それとも「家族が壊れていない状態」そのものなのか。もし後者なら、その状態はもう変わってしまっている。何を守っていることになるのか。
- 「もし母が自分で気づいたら、私はどう言うか」。この一文を、今日、頭の中で言い終えられるか。
- 父の誓いへの失望を、いつか自分の誓いにも向けてしまう予感はないか。人は約束を破るものだと決めてしまうと、いちばん先に苦しくなるのは自分の側だ。
- 沈黙を選ぶことと、沈黙に耐え続けることは別の作業だ。耐えるための逃げ場を、家庭の外にひとつ持っているか。
本日の羅針盤
答えは一本にまとまりませんでした。三人の視座を、そのまま置いておきます。
サキの立場では、沈黙は逃げではありません。生活を守るための能動的な判断です。ただし黙るなら、その荷を素手で持たないこと。友人でも、記録でも、家庭の外の誰かでも、置き場を用意してから黙ってください。
ケンゴの立場では、沈黙は選択肢のひとつであって前提ではありません。いずれ露見する可能性を織り込み、そのとき自分が口にする一文だけを先に決めておく。それは戦うための準備ではなく、消耗を減らすための備えです。
シオンの立場では、いまあなたの中で一番重いのは不倫という事実ではなく、折れた誓いのほうです。人が誓いを折るのを見てしまった者は、しばらく世界を薄く感じます。それは失望ではなく、喪に近い。急いで割り切らなくてもいい。
なお、話す相手を家族の中に持てない状態が長く続くと、心身に負荷が出ることがあります。自治体の家族相談窓口や、公認心理師などによるカウンセリングを利用する方法もあります。眠れない、食べられない、実家のことを考えると体が固まる。そういう感覚が続く場合は、専門機関への相談もご検討ください。





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