エピローグ:夢のなかの、台所
祖母が亡くなって、もうすぐ四十九日になるという頃のことだ。
その夜、私はずいぶん久しぶりに祖母の夢を見た。
夢のなかの祖母は、実家の台所に立っていた。生前と同じ、紺色に小さな白い花の散ったエプロンをしていて、コンロの前で何かを煮ていた。湯気が低く流れていた。換気扇の音と、鍋の蓋がカタカタと鳴る音。あの家の夕方の音だった。
私はダイニングの椅子に座って、祖母の背中を見ていた。何か話しかけたいような気もしたし、ただ見ていたいような気もした。声を出すとこの景色が消えてしまう気がして、しばらく黙っていた。
祖母はこちらを振り返らなかった。けれど鍋に菜箸を入れたまま、低い声で言った。
「あんた、ちゃんと食べてるかね」
それだけだった。
私はなぜか、うまく返事ができなかった。「食べてるよ」と言ったような気もするし、何も言わなかったような気もする。ただその「あんた、ちゃんと食べてるかね」という言葉の温度だけが、はっきりと残った。叱るでもなく心配しすぎるでもない、長年同じ家で暮らしてきた人の、いつもの口ぶりだった。
ふと足元に何かが触れた。猫だった。夢のなかの猫は私の膝の上にためらいなく乗ってきた。まんまるくなって、目を細めて、低くゴロゴロと喉を鳴らした。久しぶりに感じる重さだった。
祖母は相変わらずこちらを振り返らない。けれどその背中が、少し笑ったような気がした。
そこで目が覚めた。
枕元の時計は、四時半を指している。部屋はまだ暗く、外は静かだった。私はしばらく布団のなかで動けずにいた。泣いているのか泣いていないのか、自分でもよくわからなかった。
足元に温かさがあった。
そっと身体を起こすと、猫が布団の足の側でまんまるくなって眠っていた。いつ入ってきたのかはわからない。ただ、確かに布団のなかにいた。私が動いたのに気づいて、片目だけ薄く開けてまた閉じた。文句を言うように尻尾の先が一度、ぱたんと畳を打った。
私はもう一度、布団のなかに潜り込んだ。猫の背中にそっと指先を触れた。温かかった。
「ちゃんと、食べてるよ」
声には出さずにそう答えた。誰に向かって答えたのかは自分でもよくわからない。祖母にでもあったし、猫にでもあったし、たぶん私自身にでもあった。
カーテンの向こうが、ほんの少しだけ明るくなりはじめる。
台所のほうから母が起きてきて、やかんを火にかける音がした。あの家の朝の音だった。
私は目を閉じて、もう少しだけ眠ることにした。
編集後記(シオンより)
夢のなかで亡き人に会うということを、私たちはつい「特別な出来事」として扱いたがる。けれど長年一緒に暮らした人の声が、ある夜ふと夢の側から届くというのは、実のところごくありふれた、人間の心の働きなのではないだろうか。
大切なのはその夢を、「本物か、ただの夢か」と問い詰めないことだ。本物か夢かを決めようとした瞬間、夢のなかの台所の湯気は薄れて消えてしまう。決めずに、ただ「会えてよかった」と思っていることがいちばん、その人を近くに置いておく方法だと私は思う。
「あんた、ちゃんと食べてるかね」 ―― この一言がご相談者さまの中で、これから何度も形を変えて立ち上がってくることでしょう。仕事に疲れた夜、ふと冷蔵庫を開けたとき。風邪をひいて寝込んだ朝。誰かと喧嘩をして逃げ出したくなったとき。
そのたびに、思い出してください。あなたのお祖母さまはもう、こちらの世界の台所には立っていません。けれどあなたの中の台所で、これからもずっと何かを煮ている人です。
猫が布団に戻ってきた夜のことは、どうか覚えていてあげてください。それは不思議な現象でも偶然でもなく、ただ「あなたの暮らしが、少しずつ、また馴染みはじめた」という静かなしるしです。
四十九日が過ぎても過ぎなくても、お祖母さまはあなたとお母さまのそばにずっといます。形を変えて、声を変えて、夢のなかの台所の湯気として、これからも。
おやすみなさい。 良い朝が訪れますように。




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