買った瞬間に、もう終わっている。満たされない衝動買いの「本当の理由」

第二章 ―空いた手で、何に触れるか

第一章の対話のあと、私は台所の棚をあらためて眺めてみた。三つ並んだ鋳鉄の鍋。使ったのはそのうち一つだけだ。残りは買った日のまま、うっすら油の膜をまとって黙っている。

妙なことに気づいた。私はこの鍋たちを店で手に取ったときのことは覚えているのに、家に持ち帰ってからのことは、ほとんど覚えていない。買うまでが物語で、買った後は空白なのだ。ちょうど、糸が切れた凧のように。

魚屋をやっていた頃は、こうではなかった。朝、市場で魚を選ぶとき、手の中に確かな重さがあった。この鰤(ブリ)は誰に売ろう、この鯵(アジ)は常連の婆さんが喜ぶだろう──買うこととその先の誰かの顔が、いつも一本の線で繋がっていた。

今の私の買い物には、その線がない。手に取った瞬間で、線がぷつりと切れる。だから空しいのか。ならば私は切れた線の先に、誰かの顔や何かの役割を、もう一度繋ぎ直せるだろうか。

よりみちナビゲーターの対話

シオン:この方が第一章のあと、自ら棚を眺めに行った。この一歩が私にはとても大きく見える。空白を空白のまま見つめられる人は、そう多くない。

サキ:本当ですね。「買うまでが物語で、買った後は空白」って、ご自分でこんなに正確に言葉にできるなんて。私が疲れていた頃は、そこまで見られなかったです。届いた箱から目をそらしていましたから。

ケンゴ:私も、この「線」の比喩には唸らされた。魚屋時代は仕入れという行為の先に「売る相手の顔」があった。買う行為が、他者との関係の中に組み込まれていた。今はそれが、購入した瞬間で完結している。閉じた輪だ。だから満足が生まれないというのは、構造として腑に落ちる。

シオン:ケンゴが言い当てたと思う。買い物が「閉じた輪」になっているのだ。かつては開いていた。誰かのため、明日に向かって、繋がっていた。

サキ:じゃあ、この方に必要なのは買い物をやめることそのものよりも──手に入れた物がまた誰かのほうへ流れていく線を、取り戻すことなのかもしれませんね。

ケンゴ:具体的に言えば、使っていない鍋や包丁を、必要としている誰かに譲るという道がある。惣菜屋を手伝っているのなら、そこで活かすこともできるだろう。物を「溜める」方向から「渡す」方向へ、流れを逆にする。それだけでも、閉じた輪に穴が開く。

サキ:ケンゴさんの言うこと、私すごく賛成なんです。ただ──いきなり全部手放そうとすると、たぶん反動が来ます。私、断捨離で一度失敗しているので。空っぽになった棚を見て、余計に不安になってまた買ってしまう。だから、まずは一つ。気に入っている鍋を一つだけ誰かのために使ってみる、くらいから始めるのがいいと思うんですよね。

ケンゴ:……なるほど。サキさんの言う通りだ。私は「構造を変えろ」とすぐ全体を動かしたくなるが、生活はそんなに一気には回らないか。一つから、というのは理にかなっている。

シオン:ふたりの話を聞いていて、私はこう思う。この方は、物を捨てる必要はないのかもしれない。ただ、切れてしまった線を一本だけ結び直せばいい。三つの鍋のうち一つで、惣菜屋のお客の食卓を思い浮かべながら料理を作る。それだけで、買うまでで終わっていた物語に続きが生まれる。

自分に問いかけるロードマップ

  • 私が手に入れた物のうち、「その先の誰かの顔」を思い浮かべられる物は一つでもあるだろうか。
  • 溜める方向と、渡す方向。今の私の手は、どちらに向いているだろう。
  • いきなり全部を変えようとして、かえって反動で買ってしまったことが過去になかっただろうか。「一つだけ」から始めるとしたら、それは何になるだろう。
  • 魚屋だった頃の手の中の確かな重さを、今の暮らしのどこかに、取り戻せる場所はあるだろうか。

本日の羅針盤

第一章では衝動買いを止めるための「仕組み」と、その裏にある「空白」に光を当てた。第二章で見えてきたのは、その空白の正体が「切れた線」だということだ。

かつての買い物には、その先に誰かの顔があった。仕入れは売る相手へと繋がっていた。今の買い物は、手に取った瞬間で輪が閉じてしまう。満たされないのは物が悪いからでも、意志が弱いからでもない。買うことがもう誰にも、どこにも繋がっていないからだ。

だから羅針盤が指す先は、「我慢」ではなく「繋ぎ直し」にある。ケンゴの言う「溜めるから渡すへ」という方向転換。そしてサキの言う「一つだけから」という慎重さ。この二つを携えて、まずは三つの鍋のうち一つに、誰かの食卓を思い描きながら火を入れてみる。

シオンの言葉を借りるなら、物を捨てる必要はない。切れた線を、一本結び直せばいい。買うまでで終わっていた物語に静かな続きが生まれたとき、薄い曇りは少しずつ晴れていくのだろう。

生活のなかで一つずつ、あなたの手が本当に触れたいものへ線を延ばしていけばいい。急がなくていい。

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