第三章/橙色を、返しに行く
先週、久しぶりに箱を開けました。
十年ぶりです。開けるつもりはなかったのですが、通院の帰り雨に降られ、家に着いたのは夕暮れです。猫が濡れた鞄の匂いを嗅ぎに来て、それで何となく引き出しを引きました。
五枚ありました。六枚だと思っていましたが、五枚でした。
橙色は、記憶より薄かったです。私はもっと真っ赤だったと思っていました。実際は彼の胸のあたりから斜めに、夕焼けのような色が差しているだけでした。顔は分かります。目を細めて、口を少し開けて笑っています。寒かったのだと思います。
一枚だけ、彼の手が写っていました。襟をつまんでいる指です。爪の形まで見えました。それを見て、初めて泣きました。十年、こわがっていたはずの写真なのに泣いたのは炎にではなく彼の指のほうでした。
何が変わったのかは分かりません。ただ、今朝のバスは写真を数えずに乗れました。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:五枚だったんですね。
シオン:六枚だと思っておられた。
サキ:この一行が、私はいちばん胸に来ました。十年抱えていたものの数を、間違えて覚えていた。ということは、この方が抱えていたのは写真そのものではなくて、写真についての記憶だったんですよね。
ケンゴ:そのとおりだ。そして記憶のほうは、色まで濃くしていた。実物は夕焼け程度の被りだった。人の記憶は恐れているものを、年ごとに塗り増していく。私が前章で「数え直せ」と言ったのは、まさにこれを起こすためだった。だが実際に起こしたのは私の助言ではない。雨と、猫と、濡れた鞄の匂いだ。
サキ:ふふ。ケンゴさんがそう言うとは。
ケンゴ:認めるべきことは認める。私は紙に書き出す作業を勧めたが、この方はもっと確かな方法を選んでいる。原本を見た。二次資料ではなく一次資料に戻った。これは仕事の作法としても正しい。
サキ:ただ、私はそこを少し違うふうに見ています。この方が箱を開けられたのは方法が正しかったからではなくて、開けられる日が来たからだと思うんです。十年かかったんですよ。雨に降られて、猫が寄ってきて、夕方で、疲れていて──あの条件が揃わなければ、たぶんまだ閉じていました。
ケンゴ:条件を待つのは、時に何十年にもなる。私はそこを危ぶむ。
サキ:ケンゴさんの心配は分かります。ただ──開けるのを急がされたら、この方は彼の指を見つけられなかったと思います。炎を確認して、薄かったと納得して、それで終わっていたはずです。爪の形が見えるまで見つめられたのは、開けたくなって開けたからですよね。
ケンゴ:……その違いは、私には測れない領域だ。サキさんの言う条件のほうが、結果として深く届いたことは事実として受け取る。
シオン:ところで、あなたは泣いたのは炎ではなく、彼の指のほうだったと書かれた。私はこの一文の前で、しばらく手が止まった。
サキ:はい。
シオン:十年、あなたは自分が炎を見ていたと思っておられた。だが実際に見ていたのは、襟をつまむ指だった。ずっと見ていた。見ていたから、爪の形まで残っていた。炎はその上に、後から誰かが──おそらくあなた自身が──かぶせた色だったのかもしれない。
シオン:私は最初、あれは記録だと言った。訂正する。記録ではなく、預かり物だったのではないだろうか。彼が病を得る前の冬を、あなたが五枚だけ預かっていた。預かり物は呪いにはならない。ただ、重い。十年も持てば、腕は疲れて当然だ。
サキ:持たされたのではなく預かっていたということになれば、ずいぶん違いますね。
シオン:持たされたのなら、返す先を探すことになる。だが預かったのであれば、返さなくてもよい。あの五枚はあなたが彼を大切に見ていた時間の実物であって、その後に起きたことの領収書ではない。
ケンゴ:領収書ではないというのは、うまい言い方だ。この方は十年、支払いの記録として読んできた。四つの災厄を代金として。
シオン:数えずにバスに乗れた朝が、一度あった。一度あれば、二度目はかならず来る。来ない日があっても、それは構わない。
自分に問いかけるロードマップ
- 五枚だったと分かったいま、あなたが「六枚目」として覚えていたものは、何だったのでしょうか。
- 指を見て泣いたあと、あなたは箱をどこに戻しましたか。戻した場所は、開ける前と同じでしたか。
- これから先、あの五枚を見たくなる日はどんな日で、見たくない日はどんな日だと思いますか。両方あってよいとしたら、どう扱いますか。
- 数えずに乗れた朝と、数えてしまう朝。数えてしまった自分を、責めずに済ませる言葉をひとつ用意しておくとしたら、どんな言葉にしますか。
本日の羅針盤
ケンゴ:あなたは原本に戻った。記憶が塗り増していた分を、自分の目で剥がした。これは十年前の自分への訂正ではなく、単に事実の確認だ。訂正なら悔いが残るが、確認には悔いがない。四つの点に引いた線も、同じやり方で確認していけばよい。急がなくていい。ただ、確認できるものは確認するに越したことはない。
サキ:開けられる日が来るまで、十年かかりました。それでいいと思います。これからも開けられない年があってもいいし、桐の箱のままでいい。ただ、今朝みたいに数えずに乗れた日があったら、それはご自分で覚えておいてください。誰も代わりに数えてくれませんから。通院と、白湯と、猫の背中。それが回っていれば、あなたの生活はちゃんと立っています。
シオン:あなたは「あの写真は一体何だったのか」問われた。三章かけて、私ならこう答る。あれはあなたが冬の岬で誰かを長く見ていたことの、五枚の証しだ。橙色は、あなたの目がそこに多く注がれたことの痕かもしれず、ただの光の事故かもしれない。どちらであっても、あの五枚があなたの病を呼んだのではない。
そしてこうも思う。あなたが十年抱えていた重さは、無駄ではなかった。誰も祀らない仏壇の下に、他人の冬をひとつ守り続けた人がいた。それは呪いを受けた人の姿ではない。
ご自身の病と、これから長く付き合っていかれるだろう。数えてしまう朝は、きっとまた来る。そのとき四つを数えるのではなく、五枚を数えてくださればよいのではないだろうか。五枚しかないと分かった、あの写真を。
──ここまで、お読みくださりありがとうございました。
治療の途中で、考えがひとりでに回り出して止まらなくなる夜があれば、それは体の状態と無関係ではありません。遠慮なく主治医にお伝えください。通院先に相談の窓口が置かれていることもあります。ひとりで抱える必要のない部分は、預けてしまってよいのです。専門機関への相談もご検討ください。




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