頭を下げなかった私が、二十年後にようやく渡せた言葉。理不尽な過去を越えて

第二章 ―― あの所長室の、白い蛍光灯の下で

その日の朝、私は普段より早く事務所に着いていました。図面の締め切りが近くて、静かなうちに手を動かしておきたかったのです。誰もいない事務所は、夜のあいだ止まっていた空気がまだ冷たく残っていて、製図台の金属に触れると指先がひやりとしました。私はこの時間が好きでした。誰にも呼ばれず、誰にも笑われず、ただ線を引いていられる時間。

九時を過ぎて、あの人が来ました。ヒールの音が、まるで自分の存在を全員に知らせるみたいに、床を鳴らしながら近づいてくる。甘い香水の匂いが私の背中のあたりまで届いた頃には、もうその日の平穏は終わっていました。十時になれば、いつもの長電話。「昨日さー、あの店やっぱ混んでてー」。誰かの仕事の音を、自分の声で塗りつぶしていく人でした。

私が「少し静かにしてもらえますか」と言ったのは、たぶんその日の午後だったと思います。声が震えていたのを覚えています。怒鳴ったわけじゃない。ただ、これ以上は無理だと体の底から出てきた言葉でした。彼女は一瞬きょとんとして、それから急に目を潤ませて、「……なんでそんな言い方するの」と、まわりに聞こえるように言ったのです。

翌朝、所長室に呼ばれました。白い蛍光灯が、やけに明るかった。所長は私の顔を見ずに、机の書類を見たまま「あんな言い方はないだろう」と言いました。私は彼女が午前中、ずっと電話をしていたことを説明しようとしました。けれど所長は最後まで聞きませんでした。「彼女も反省してるから」。そう言われた時、私はもう、何も言う気力が残っていませんでした。


よりみちナビゲーターの対話

アキ: ……この場面、読んでて悔しくて仕方ないよ。声が震えてたって書いてあるでしょ。怒鳴ったんじゃないんだよ。もう限界まで我慢して、やっと絞り出した言葉なんだよ。それを「あんな言い方」の一言で片付けられて。私だったらその場で泣いちゃう。ううん、泣けなかったと思う。だってあなた、泣くことすら許されない空気だったよね、その所長室。

ケンゴ: 私が引っかかったのは、所長が「顔を見なかった」という一点だ。それは後ろめたさの表れだと思う。本当にあなたが全面的に悪いと思っていたなら、正面から目を見て叱ったはずだ。顔を見られなかったのは、所長自身もどちらが理不尽かを分かっていたからだ。分かっていて、なお楽なほうを選んだ。私はそこに、この組織のいちばん弱い部分が出ていると思う。

アキ: ……それ聞いて、ちょっと救われた。ケンゴさん、そういうとこ鋭いよね。所長も分かってたっていうのは、たぶん本当だと思う。ただ——分かってたのに守ってくれなかったって、ある意味もっと残酷じゃない? 知らなかったんじゃなくて、知ってて見捨てられたってことでしょ。

ケンゴ: ……アキの言うことも分かる。確かに、無知より無責任のほうが傷は深いかもしれない。ただ、私はこう考えたい。所長が目を逸らしたという事実は、裏を返せば「あなたのほうに理があった」という、あの部屋にいた全員の無言の証言だ。その場では覆らなかった。だが、真実そのものはあの日、ちゃんとあの部屋に在った。二十年経ってもそれは消えていない。

シオン: ——私は「白い蛍光灯が、やけに明るかった」という一文に、長く目が留まった。人は心を守るとき、なぜか光や匂いといった、どうでもいいはずのものを鮮明に覚えているものだ。それはきっと、正面から受け止めるにはあまりに痛い出来事を、体が少しだけ横にずらして受け止めた跡なのだろう。あなたはあの日、精一杯、自分を守ったのだ。


自分に問いかけるロードマップ

  • 所長室で私が本当に欲しかった言葉は「ごめん」だったのか、それとも「君は正しい」だったのか。
  • 「泣く気力すら残っていなかった」あの時の私に、今の私はどんな顔で、どんな声をかけてやれるだろう。
  • 私は今も、あの日のことを「自分が言い返したから起きた」と考えているだろうか。それとも「組織が動かなかったから起きた」と、少しずつ思えるようになっているだろうか。

本日の羅針盤

第二章で立ち止まったのは、「所長が顔を見なかった」という、あなた自身が覚えていた一つの動作です。
ケンゴが読み解いたように、それはあなたの正しさを、あの部屋の全員が無言で認めていた証かもしれません。
そしてアキが言うように、知っていて守られなかったことの痛みは、それとは別に確かにそこにありました。

シオンが触れた「蛍光灯の明るさ」を覚えているという事実は、あなたが壊れないために、体ごとその瞬間を引き受けた記録です。あなたは逃げませんでした。震える声で、それでも言うべきことを言った。その姿を二十年後のあなたは、どうか誇りに思ってあげてください。

次の章では、この記憶が今のあなたの働き方や人との関わりにどんな影を、そしてどんな光を落としているのかを見ていければと思います。

もし振り返る作業がつらく感じられる時は、無理に一人で進めず、信頼できる専門機関(公認心理師によるカウンセリング等)の力を借りることも、どうぞ選択肢に入れてください。

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