やりたいことがない人生は、本当に空っぽなのか ― 続かない自分との和解のしかた

私は何のために、この暮らしを続けているのだろう

私は今年で42歳になる。地方都市の郊外で、小学校の事務員として働いている。夫はいない。子どももいない。築四十年の小さな一軒家に、十八歳になる柴犬と二人で暮らしている。

朝六時に起きて、犬に餌をやり、自分のために濃いめのインスタントコーヒーを淹れる。職場までは自転車で十五分。子どもたちの出席簿を確認し、業者への支払いを処理し、保健室の先生と給食費の話をする。そういう一日がもう、十年以上続いている。

不満はない。同僚は穏やかな人ばかりで、給料は多くないが一人暮らしには十分だ。けれど最近、夜になると考えてしまう。「私は何のために、この暮らしを続けているのだろう」と。

振り返れば十代の頃から、「これがしたい」というものがなかった。中学も高校も、ただ通った。授業の内容はほとんど覚えていない。短大を出て、地元の役場の臨時職員になり、今の学校に流れ着いた。

三十代の半ばに一度だけ、何かを変えようとしたことがある。書店で見つけた自己啓発の本を何冊も買い込み、SNSで前向きな言葉を発信する人たちをフォローした。半年ほどは自分が変わったような気がした。けれどある朝、本棚に並んだ背表紙を見て急に空しくなった。全部、古紙回収に出した。

陶芸教室に通ってみたこともある。家庭菜園を始めたこともある。やっている最中は楽しい。でも、三ヶ月もすれば飽きてしまう。「本当にやりたいことか」自分に問うと、答えはいつも「別に」だ。

やりたいことがない人間は、一生やりたいことが見つからないまま終わるのだろうか。それは悪いことなのだろうか。

四人の声 ― それぞれの距離から

ケンゴ:この相談を読んで、私はまず「正直な人だ」と思った。多くの人間は本当はやりたいことなどないのに、「やりたいことがある自分」を演じることで日々をやり過ごしている。SNSの投稿、転職活動の自己PR、年末の抱負。あれらの多くは、空欄を埋めるための言葉だ。あなたはその空欄に「ない」と書き込めた。それはある種の知性だと、私は思う。

アキ:うん、それはわかるよ。でもケンゴさん、ちょっと待って。「知性だ」って言われても、ご本人は別に褒められたくて相談してるわけじゃないと思うんだよね。「私は何のためにこの暮らしを続けてるんだろう」って思っちゃう、その時間の重さのほうがたぶん本当のテーマでさ。

ケンゴ:そうだな。指摘はもっともだ。私はつい、構造の話から入ってしまう。アキさんの言うとおりご本人が困っているのは、「やりたいことがない」という事実そのものではなく、その事実を抱えて夜を過ごす感触のほうだろう。

サキ:私、この方の文章を読んでいて一番心に残ったのは、十八歳の柴犬と暮らしているという一行なんですよね。十八年って、犬にとってはもうずいぶんな年月でしょう。朝六時に起きて餌をやる、その繰り返しを十八年続けてきた人を「やりたいことがない人」と呼んでしまっていいのか、私は少し迷うんですよ。

アキ:あー、それすごくわかる。やりたいことってたぶん、「胸が高鳴ること」だけじゃないんだよね。続けられること、続いてしまったこと、それも含めて「やってきたこと」だと思うんだ。

ケンゴ:ただそこで一つ、踏み込ませてほしい。「続けられたから、それで十分だ」と言ってしまうのは易しいが、この方の問いには答えていないと私は思う。この方は「夜になると考えてしまう」と書いている。続いている日常が、夜の問いを消してくれていない。そこを見ないで、温かい言葉だけ重ねるのはかえって不誠実ではないか。

サキ:……ケンゴさんのおっしゃること、わかります。ただ、私は少し違って感じていて。夜の問いって必ずしも、「解決すべき問題」じゃないと思うんですよね。明日の朝、犬に餌をやる手が動く限り、その問いは抱えたままでもいい。むしろ無理に答えを出そうとすることのほうが、この方をすり減らしてきたんじゃないでしょうか。三十代半ばで本を捨てた、あの瞬間のように。

ケンゴ:……それは確かに、そうかもしれない。

気づきのセクション ― 「やりたいこと」という言葉の重さ

シオン:三人の話を聞いていて、私はひとつ思ったことがある。「やりたいことがない」と言うとき、私たちは「やりたいこと」という言葉を、あまりにも信じすぎているのではないだろうか。

その言葉はいつ頃から、これほど重くなったのだろう。江戸の職人に「あなたのやりたいことは何ですか」と尋ねても、おそらく彼は答えに困っただろう。彼は目の前の鉋(かんな)を研ぎ、木の目を読み、注文された箪笥を仕上げる。それだけだ。「やりたいこと」はそこにはない。あるのはただ、「すること」だけだ。

あなたが朝六時に起き、老いた犬に餌をやり、自転車で職場へ向かうとき、そこにあるのは「やりたいこと」ではないかもしれない。けれど確かに、「していること」はある。その手の動きを、「やりたいこと」という物差しで測り直す必要が本当にあるのだろうか。

本人に戻って ― 結論を急がない

アキ:ご相談の方に戻りますけど、私はね、「やりたいことがない人はやりたいことがないのか」って問いに、無理に「あなたにもきっとある」って答えたくないんだ。だってそれこそが、あなたを疲れさせてきたメッセージじゃない?

ケンゴ:同意する。ただし、私からひとつだけ申し上げたい。「やりたいことを探す」のではなく、「やってしまっていることに名前をつける」ことから始めてはどうだろうか。
十八年、犬と暮らした。十年以上、子どもたちの出席簿を確認してきた。それは「やりたいこと」ではないかもしれない。だが、紛れもなくあなたが選び続けてきた行為だ。選び続けることと、やりたいことは、必ずしも同じではない。

サキ:私もそう思います。陶芸も家庭菜園も、三ヶ月で飽きた。それでいいんですよ。三ヶ月、土に触れた手の感覚はちゃんと残ってますから。

本日の結論 ― 一つにまとめない

ケンゴから:「やりたいことがない」は欠落ではない。だが、夜の問いから目を逸らす必要もない。問いを抱えたまま明日の朝、いつもの手順を続ければよい。

アキから:あなたを変えようとする本も人も、もう手放していい。変わらない自分の輪郭を、夜の灯りのなかでただ眺める時間も、悪くないと思うよ。

サキから:十八歳の犬と過ごす朝の十五分は、誰にも真似できない、あなただけの時間ですよね。それを「やりたいこと」と呼ぶかどうかは、後で決めればいい話だと思います。

シオンから:答えを急がないこと。問いは抱えたまま歩いてよいものだ。歩いているうちに、問いのかたちが少しずつ変わっていくことがある。

※もし、夜の問いが眠りを妨げるほどに重くなる日が続くようでしたら、地域の心の健康相談窓口や、信頼できる医療機関に話を聞いてもらうことも、選択肢のひとつとしてご検討ください。話すこと自体が問いの重さを少し軽くしてくれることがあります。

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