「罰」ではなく「節目」――こけた朝に、神さまは何を見ていたか
私は四十二歳の男で、市役所の窓口で働いている。資格試験を受けると決めて、半年ほど勉強を続けてきた。
受験の前の晩、近所の小さな稲荷神社へ足を運んだ。子どもの頃から境内の片隅にある古い手水鉢(ちょうずばち)が好きで、何かあるとそこで手を洗ってきた。試験前夜、私は柏手を打ち、どうか受かりますようにと頭を下げた。
試験当日。朝起きると喉の奥が腫れて、体が芯から重かった。窓の外は叩きつけるような雨で、駅へ向かう途中、足元の水たまりが革靴に染みた。会場に着いてからも頭がぼんやりして、いつもなら解ける問題で手が止まった。
手応えは、なかった。 その帰り道、私はまた同じ神社に寄った。お礼のつもりだった。けれど翌日、熱が上がり布団から起き上がれなくなった。結果通知の封筒は薄かった。落ちたのだ。
横になりながら、私はぼんやり考えていた。試験前に神頼みなんてしたから、ばちが当たったのだろうか。神さまは虫のいい願いごとをした私に、罰を下したのだろうか。天井のシミを見つめながら、そんな思いがほどけずにいる。
よりみちナビゲーターの対話
シオン まず、あなたが体を休めていることを私はよかったと思っている。お疲れさまでした。──ところでひとつ、伺いたい。あなたが手を洗ってきたあの古い手水鉢は、あなたを「罰する」ために長いあいだそこにあったのだろうか。
サキ その問い、私もすっと入ってきますね。ご相談を読んでいて思ったんです。試験の前の晩、わざわざ足を運んで子どもの頃から好きだった場所で手を合わせた。それって、罰を受けにいったんじゃなくて、心を整えにいったんですよね。
ケンゴ 事実を整理したい。当日の不調、大雨、それと試験の結果。この三つに因果のつながりはない。微熱と倦怠感は、半年間の蓄積疲労とおそらく前夜の緊張、そして季節の感染症の重なりだろう。雨は気象、結果は実力と当日のコンディションの問題だ。神社が介在する余地は、構造上どこにもない。
サキ ケンゴさんの言うことは分かります。ただ──、私が気になるのは「自業自得」って、ご自分で何度も書いていらっしゃることなんです。理屈で「関係ない」と言われても、夜、布団の中で自分を責める声って、なかなか止まらないものですよね。
ケンゴ ……それはその通りだ。私は構造の話をしたが、構造を示しただけで薄い封筒を受け取った夜の重さは軽くならない。サキの指摘を受け入れる。
シオン ご本人の話に戻ろう。あなたは「神さまが罰を与えた」と考えている。だが、日本の神さまは契約を破った人間を裁き、罰を下す――そういう性質の存在として語り継がれてきたわけではない、と私は思っている。神社とは罰の執行所ではなく、節目に立ち寄る場所だ。生まれたとき、七五三、成人、厄年、そして年の改まりに、人は手を合わせてきた。
サキ 節目、ですね。私、お正月にしか行かないんですけど、あれもきっと「去年が終わって、また始まる」っていう区切りを、自分でつけにいってるんだと思います。
シオン 願いごとをして、それが叶わなかった。だから罰された――この発想は、神を「願いを聞き届ける代わりに、応えられなければ報復する存在」とみなしている。けれど、あの手水鉢の前で頭を下げたとき、あなたの中で何が起きていたか。罰を恐れる心ではなく、明日へ向かう自分の背中を自分で押そうとしていた、私にはその姿が見える気がする。
ケンゴ 付け加えるなら、お礼参りに行ったこと。結果が出る前だったかもしれないが、失敗した相手に礼を言える人間が罰を受けるに値するとは、私にはどうしても思えない。
自分に問いかけるロードマップ
- 神さまに手を合わせたあの瞬間、私は「罰されないため」に祈ったのか。それとも「明日の自分を信じたくて」祈ったのか。
- 体調を崩したこと、雨が降ったこと、結果が出なかったこと――この三つを、私は一本の「罰の物語」に結びつけてはいないだろうか。
- もし親しい誰かが同じ目に遭って「神頼みしたからばちが当たった」と言っていたら、私はその人に何と声をかけるだろうか。
本日の羅針盤
日本の神社は過ちを裁いて罰を下す法廷ではない。人生の節目に立ち寄り、心を整え、また歩き出すための場所だ。あなたが前夜に手を合わせたのは罪ではなく、お礼参りに行ったのは美しい礼節だった。
体調を崩したのは、半年間ひたむきに走ってきた体が、ようやく緊張から解かれた反動かもしれない。雨も地震も、神の意志ではなく、ただこの世界に起きた出来事だ。それらを「自分への罰」として束ねてしまうのは、つらいときに人が陥りやすい心の癖でもある。
シオンの視座からひとつ。神社が教えてくれるのは「罰」ではなく「節目」だ。今回うまくいかなかったのなら、それは終わりではなく、次の節目までの途中にすぎない。次に手を洗いに行くときは願いを聞き届けてもらうためではなく、ここまで歩いた自分をねぎらうため、頭を下げてみてはどうだろう。
なお、熱や倦怠感が長く続く場合は、神仏ではなく医療機関にご相談ください。体はあなたが思うよりずっと正直に、疲れを訴えています。




コメント