一秒に十枚の「きれい」を、私は通り過ぎている
三十九歳、栃木の医療機器メーカーで働いています。仕事は目視検査です。手術で使う小さな金属部品を、一日じゅう蛍光灯の下で見ています。
髪の毛より細い傷を、一つずつ探して弾く。八年もやっていると、傷のほうから目に飛び込んでくるようになりました。目のいい人だね、と言われます。褒められているのだと思いますが、素直に喜べたことは一度もありません。帰りのバスで、私はスマホを開きます。写真を見るためです。指が勝手に上へ動くという言い方は、大げさでありません。夕焼けの海。雪の残る北アルプス。逆光の中で笑っている、知らない誰かの子ども。どれも本当にうまい。プロなのかアマチュアなのかも分かりません。しかも私は、一円も払っていない。
それなのに家の最寄りで降りるころには、さっき見た写真を一枚も思い出せないのです。きれいだった、という感想だけが残っています。きれいだった、以上。それだけです。
中学二年の冬のことを、ときどき思い出します。父に連れられて行った床屋の待合に、写真の月刊誌が積んでありました。順番を待つあいだ、暇つぶしにめくった見開きに、川が写っています。朝もやの中を、鮭が遡上している一枚です。うまく説明できませんが、腕に鳥肌が立ちました。パーマ液の匂いも、ストーブの上でしゅうしゅう鳴っていたやかんの音も、まだ覚えています。
あのころは月に一度、七百円くらい払って、ページをめくる順番も勝手に決められていました。今は無限にあって、キーワードで検索すればすぐ目的の作品に行きつく。しかもタダです。父が遺したフィルムカメラは押し入れの上段に入れたまま、七年触っていません。
私の感受性が、鈍ってしまったということなのでしょうか。
よりみちナビゲーターの対話
アキ:先に一つだけ言わせてほしい。鈍ってないよ。絶対に鈍ってない。だって今、鮭の写真の話をするときに、やかんの音まで一緒に出てきたよね。感じる力をなくした人は、そういう思い出し方をしないと思う。
ケンゴ:私も感受性が失われたという見立てには反対だ。ただ、理由はアキとは違う。この方は一日八時間、金属の傷を探しておられる。つまり「悪いところを見つける」ための目の使い方を、仕事として毎日訓練させられているわけだ。その目のまま夜にスマホを開けば、写真は味わう相手ではなく判定する相手になる。きれい、合格、次。それは鑑賞ではない。検品だ。
アキ:……それ、言い方きつくない。仕事のせいで心が動かなくなったって、本人に告げるようなものだよ。
ケンゴ:アキの言うことは分かる。ただ、私はむしろ逆のことをしたいからそう言っている。「私の感受性が鈍った」というのは、自分の中身を責める説明だ。あなたが悪いのではなく、目の使い方と環境がそうさせているという説明に置き換えたほうがいい。中身は簡単に変えられないが、使い方と環境は変えられるからだ。
アキ:……なるほど。それなら分かる。ごめん、噛みついた。
ケンゴ:構わない。むしろ助かる。私の言い方はしばしば、冷たく届く。
シオン:二人は、同じ川の両岸に立って話しているように聞こえる。ひとつだけ付け足すなら、あの日の鳥肌は、写真だけが起こしたものではないかもしれない。順番が来るまで動けない退屈な時間があり、ストーブの匂いがあり、まだ何者でもない十四歳がいた。そこへたまたま、川が流れてきた。写真は中身であると同時に、器のほうだったのかもしれない。
ケンゴ:その視点は重要だ。次章ではまず、その器の話を私なりに分解して示したい。





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