「ふつうの家族」じゃないことを、子どもの不利益にしないために
あの夜から、何日かが経った。孫娘はいつものように週末を私の家で過ごし、月曜の朝、娘の運転する軽自動車で団地に帰っていった。後部座席のチャイルドシートで、孫はまだ眠そうな目をして小さく手を振っていた。
私は玄関の戸を閉めて、しばらくそこに立っていた。庭の梅の木に、まだ堅いつぼみが見えていた。
娘たちが帰ったあと、家の中は急に静かになる。冷蔵庫の音と柱時計の音だけが、はっきり聞こえる。私はこの静けさが嫌いではない。ただ、この静けさの中にふと「これでよかったのかな」という小さな声が混ざることがある。
離婚して、お互いに別の家に住んで、孫が二つの家を行き来する。私たちの世代ではあまり見なかった形だ。私の母ならたぶん、「かわいそうに」と言うだろう。でも、私は孫が「かわいそう」だとは思っていない。ただ、「これがふつう」ともまだ言い切れない自分がいる。
この曖昧さの中で、これから何年も孫の成長を見ていくことになる。小学校に上がり、思春期を迎え、いつか自分の道を選んでいく。そのとき孫が振り返って、いまの時間をどう思うのか――私にはまだ、分からないのだ。
「ふつうじゃない」という言葉の重さを、誰が引き受けるのか
サキ「この章の入り口に記された『これがふつう、とも言い切れない自分がいる』という一文。私、ここにご相談の本当の重みが宿っている気がするんです」
アキ「うん、わかる。たぶんおばあちゃん、ご自分の世代の『家族の形』と、孫が生きていく『家族の形』のあいだで、ちょっと宙ぶらりんになってるんだよね。どちらかに立てれば楽なんだけど、誠実な人ほどどちらにも立ち切れない」
ケンゴ「データで言えば、日本の離婚件数は年間およそ十八万件前後で推移している(注:厚生労働省の人口動態統計による近年の傾向)。両親が別々に暮らす中で育つ子どもを、もはや少数派とは言い切れない規模になっている。『ふつう』という言葉の中身が、世代によって違ってきているのは事実だ」
サキ「ケンゴさんがおっしゃるように、統計的にはそうなんですよね。ただ私、思うんです。『ふつう』であるかどうかを大人が気にしすぎることが、かえって子どもに『うちはふつうじゃないんだ』と思わせてしまうこともあるって」
アキ「あー、それすごくわかる。たとえば保育園におばあちゃんがお迎えに行く日があって、ママが行く日があって、たまにパパが行く日もある――それを大人が『うちは複雑で』って前置きして説明すると、子どもは『そっか、うちは複雑なんだ』って学んじゃうんだよね」
サキ「そうなんです。子どもにとっての『ふつう』は、頻度なんですよね。週に何度も繰り返されることが、その子の『ふつう』になる。だからお孫さんにとっては、おばあちゃんちで麦茶を飲むことも、ママの団地で寝ることも、パパの部屋で過ごすことも、全部すでに『ふつう』なんです。問題はその『ふつう』を、大人が後ろめたく扱っていないかということで」
ケンゴ「同意する。大人が気を遣いすぎることが、結果として子どもに『気を遣わせる空気』を作る。これは職場でも同じ構造だ。上司が部下に『悪いね、悪いね』と繰り返すと、部下は『自分は迷惑な存在なのか』と感じ始める。気遣いの過剰は、しばしば相手の自尊心を削る」
「パパが死んじゃったら」――この言葉の奥にあるもの
アキ「ここでもう一回、孫の言葉に戻りたいんだけど。『パパが死んじゃったらどうしよう』ってセリフ、第一章でも触れたけど、私ずっと考えてた」
アキ「五歳の子が『死』を口にするのって、けっこう驚くよね。でも、この年齢で死を意識し始めること自体は、発達の自然な過程として知られていることでもあるんだよね。だからその言葉が出ること自体を、過剰に心配しすぎなくていいと思う」
サキ「そうですね。ただ、その言葉が『パパ』に向けて出ていることには、やはり意味があると思うんです。たとえば『ママが死んじゃったら』とは、お孫さんはあまり言わないようですよね。ママは毎日一緒にいるから、消えるイメージが湧きにくい。逆にパパは離れて暮らしているから、『会えなくなる』というイメージが『死』という言葉に翻訳されやすいんじゃないでしょうか」
ケンゴ「鋭い指摘だ。つまり『パパが死んじゃったら』は、字面(じづら)通りの死への恐怖というより『パパとの関係が、ある日ふっと途切れるかもしれない』という、関係の不確実性への不安の表現だ」
サキ「私はそう感じています。だからこの言葉に対する答えは、『大丈夫、パパは死なないよ』ではなく『パパは、ずっとあなたのパパだよ』のほうが、お孫さんには届くんじゃないかと思うんですよね。たとえパパが再婚しても、住む場所が変わっても、『パパ』であることは変わらない。その約束のほうが、子どもには必要な気がします」
アキ「うわ、それいい。『死なないよ』だと未来の保証になっちゃうから嘘になりかねないけど、『ずっとあなたのパパだよ』なら、関係性の約束だからちゃんと守れる」
ケンゴ「そしてそれを、元のお父さん自身の口から、繰り返し伝えてもらうのがいちばんいいだろう。おばあちゃんから娘さんに、『あの子、パパがいなくなるって心配してるみたい。よかったらパパからも声をかけてあげてほしい』と伝えておく。これは第二章で話した『点検する会話』の延長線上にある、具体的な提案だ」
五年後、十年後の孫が、振り返ったときに
シオン「ふと、思うことがある。いま五歳のあの子が十五歳になったとき、二十五歳になったとき、いまの時間をどう思い出すのだろう。『複雑な家族だった』と思うのか、『おばあちゃんちの台所にはいつも麦茶があった』と思うのか。それはいまの大人たちの言葉の温度が決めることなのかもしれない」
サキ「シオンさんが、いまとても大事なことを言ってくださいましたね。子どもは出来事そのものよりも、その出来事にまわりの大人がどんな顔をしていたかを覚えていくんですよね」
サキ「お孫さんが二十歳になって、『うちは、両親が離婚しててね』と誰かに話すとき。そのとき、その言葉に暗さや後ろめたさではなく、『でも、おばあちゃんちで麦茶飲むの、好きだったんだ』みたいな、小さな明るさが混ざっていたら――それこそいまのおばあちゃんが、本当にしてあげられる最大のことだと思うんです」
アキ「あー、それでちょっと泣きそう。子どもが大人になったときに、自分の生い立ちを悲劇としてではなく、ふつうの記憶として語れること。それってすごく大きなギフトだよね」
ケンゴ「同意する。そしてそのギフトは、ドラマチックな決断や感動的な言葉から生まれるものではない。むしろ日々の小さな繰り返し――同じ椅子、同じ味噌汁、同じ毛布、同じ『おかえり』――の積み重ねからしか生まれない。これは戦略の話ではなく、生活の話だ」
サキ「ケンゴさんがようやく、生活の側に降りてきてくださいましたね」
ケンゴ「最初から生活を軽んじていたつもりはないんだが」
アキ「ふふ、ケンゴさんもたまに、そういう顔するんだね」
最終章の結論――三章を通じて、おばあちゃんへ
第一章で見たこと。お孫さんが口にする「パパが心配」「パパが死んじゃったら」という言葉は、お孫さん自身の不安の翻訳である可能性が高いということ。否定せず、「そっか、心配なんだね」と一度受け止めてあげること。
第二章で見たこと。「いつも笑顔」を少し緩めて、おばあちゃん自身の小さな弱さも見せていいということ。娘さんとは「点検する会話」を、横並びで、孫の様子を入り口にして持つこと。元義理の息子さんの再婚という未来について、整理しきれない気持ちが自分の中にあることを認めていいということ。
第三章で見たこと。「ふつうじゃない」という重さを、大人が引き受けすぎないこと。子どもにとっての「ふつう」は頻度であり、すでにお孫さんは二つの家を行き来する暮らしを「ふつう」として生きているということ。そして「パパが死んじゃったら」への答えは、「死なないよ」ではなく「ずっとあなたのパパだよ」――関係性の約束として返すこと。
そしてもっとも大切なこと――お孫さんが大人になって自分の生い立ちを誰かに話すときに、その言葉に小さな明るさが混ざっているように。そのための材料はドラマチックな決断ではなく、おばあちゃんちの台所の麦茶の冷たさや、毛布の匂いや、「おかえり」のひと言の中にあるということ。
三章を通じて四人の声は、ときに食い違いました。アキの「いまの感情を大切に」と、ケンゴの「長期的な構造を」と、サキの「生活の手触りから」と、シオンの「視座をずらして」
そのどれか一つだけが、正解ではありません。日々の場面ごとに、おばあちゃんご自身がどの声に耳を傾けるかを選んでいけばいいのです。
梅のつぼみが、来月には開きます。来年の今ごろ、お孫さんはもう小学生になっています。その時間の流れの中で、おばあちゃんの台所が変わらずそこにあること。それがこの家族にとって、いちばん確かな羅針盤になるはずです。
※ 本記事は日常の悩みに対する読み物として、共感的な視点を提供することを目的としています。お孫さんの心の様子についてより専門的な視点を求められる場合は、お住まいの自治体の子育て世代包括支援センター、またはかかりつけの小児科でも相談に応じてもらえることがあります。「離婚家庭の子どもの心理」については、家庭裁判所の家事相談窓口や面会交流の支援団体でも、無料で相談できる場合があります。一人で抱え込まず、必要なときは専門の方の手を借りてください。




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