「普通」という行方不明の物差し。母の一言と、手帳から消えない「あと7キロ」

第三章 玄関の三秒

実家の玄関のチャイムは、子どもの頃と同じ音だった。少し間があって、磨りガラスの向こうに母の影が近づいてくる。鍵の回る音。ドアが開く。

母は、私を見た。上から下まで、まさに私がシミュレーションした通りの順番で。その三秒が、永遠のように長かった。心臓が耳の奥で鳴っていた。ここで「まだ太ってる」と言われたら――そう身構えた瞬間、母が口を開いた。

「あんた、顔色が悪いよ。ちゃんと食べてるの」

予想していたどの言葉でもなかった。「痩せたね」でも「まだ太い」でもない。私はとっさに「食べてるよ」と嘘をついた。母は眉をひそめて、「入りなさい。寒いから」とだけ言った。台所からは煮物の匂いがしていた。里芋と鶏肉と、たぶん大根。子どもの頃、私が好きだった味だ。

靴を脱ぎながら、私は混乱していた。二年間、私が痩せてきたのはこの人に「もういい」と言わせるためだった。なのに母は私の体重に一言も触れず、ただ「食べてるの」と聞いた。用意していた鎧が行き場を失って、玄関の三和土(たたき)に転がっていた。

よりみちナビゲーターの対話

アキ:……ちょっと待って。私、この場面で泣きそうになった。だってさ、この人がずっと怖がってた「まだ太ってる」が来なかったんだよ。代わりに来たのが「ちゃんと食べてるの」。これ、順番が全部ひっくり返っちゃった瞬間だよね。

サキ:里芋と鶏肉の煮物、というのが効いていますね。お母さんは言葉が不器用な方なんだと思うんです。昔は「デブ」と言っていた同じ口が、今度は好物を煮て待っている。人は変わるんですよね。ただ変わったことを、うまく言葉にできない。

ケンゴ:私はここで、少し立場を変える。第二章で数字を突きつけた私だが、この場面を読んで考えを改めた部分がある。母上の「食べてるの」は、たしかに不器用だ。だが構造として見れば、これは母上なりの、二十年遅れの謝罪に近いのではないか。かつて娘を痩せさせようとした人が、今は痩せた娘を心配している。物差しが母上の側でも変わったのだ。

アキ:ケンゴさんが「考えを改めた」って言ったの、私、うれしい。そうなんだよ。この人はずっと、母さんの物差しは固定されたままって思い込んでた。でも母さんも、二十年かけて変わってたんだよね。ただ、変わったことをお互いに言えないまま、玄関で三秒見つめ合っちゃった。

シオン:あなたは「もういい」と言わせるために痩せた、と言った。だが玄関で起きたのは、それとは別のことだ。母上は「もういい」とは言わなかった。代わりに「食べているか」問うた。それはあなたの体重を採点する言葉ではなく、あなたの命を気づかう言葉だ。あなたが二十年待っていた許しは、もしかするとはじめから採点の外にあったのかもしれない。

サキ:ただ、私はひとつだけ現実的なことを。この方はお母さんに「食べてる」と嘘をつきました。ここがいちばん、大事な分かれ道だと思うんです。この嘘はお母さんを守る嘘ではなく、ご自分の状態を隠す嘘です。この一言が言えなかったことに、回復のむずかしさが全部詰まっている気がして。

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