第二章 「訂正しない」という技術 ── 休憩室の湯気ごしに
あの日から私は、数えるのをやめました。やめようと決めた日に限って、朝の申し送りで「エグい」が三回出ました。数えるのをやめると決めたのに、三回と分かってしまう自分がいちばん厄介です。
木曜の午後、待合が空いた時間にあの二十代の子──佳奈ちゃんと呼んでいます──が処方箋の控えを整えながらぽつりと言いました。「森さん、私、口悪いですか」。ぎくりとしました。何も言っていないのに、伝わっている。私は「そんなことないよ」と答えて、それが嘘だと自分でも分かりました。ほうじ茶の湯気が、いつもより白く見えました。
よりみちナビゲーターの対話
ケンゴ: 第一章で私は「感覚は私物として持ち歩き、公道には出さない」と述べた。今回、その具体的な運用を扱いたい。まず押さえるべきは、佳奈さんの「私、口悪いですか」という一言が極めて重要な情報だという点だ。あれは非難ではない。確認だ。相手はすでに気づいていて、なおあなたに問い直してきた。関係が切れる前の段階にある証拠だと、私は読む。
サキ: 私も、その一言に救いがあると思うんですね。二十代の子が十四年目の先輩に向かって「私、口悪いですか」と聞くのは、それなりに勇気が要ります。嫌われていたら聞きません。距離を取って終わりです。
アキ: うん。でもさ、私が佳奈ちゃんの側だったら、「そんなことないよ」って言われた瞬間がいちばんきついよ。あれ、伝わってるんだよね。嘘だってことも、たぶん向こうは分かってる。だから私は、そこで嘘をつかない方法を考えたい。
ケンゴ: アキの言うことは分かる。ただ、正直に「気になる」と伝えることは、この場面では推奨しない。理由は二つある。
一つ、相手は「私の話し方は先輩を不快にさせている」という情報を得るだけで、直し方は分からない。
二つ、その情報は職場という逃げ場のない場所で、上下のある関係に置かれる。善意の正直さが、相手にとっては査定になる。
アキ: ……ケンゴさんの整理は分かるよ。ただそれって結局、佳奈ちゃんが一生「なんか嫌われてるかも」を抱えたまま働くってことじゃない? 黙ってることが優しさになる場面と、黙ってることが相手をじわじわ削る場面があると思うんだよ。今回、後の方に思える。
ケンゴ: 削る、という指摘は受け止める。だから私は「黙る」ではなく、「別のものを渡す」ことを提案したい。──言葉の話をやめて、仕事の話をすればいい。「佳奈ちゃんの申し送りは早い」「あの患者さんの機嫌をよく見てる」。事実として観測できることを、具体的に伝える。相手が受け取るのは「私はこの人に認められている」という一点で、それがあれば「口悪いですか」の不安は成立しなくなる。語彙を訂正せず、関係の残高を増やす。
サキ: それは生活の手触りとして納得できます。私も夫の言い方が気になった時期に、言い方を直そうとして失敗しました。うまくいったのは、別のことを褒めたときなんですね。ただ、ケンゴさんの案に一つ足したいことがあります。褒めるのが目的になると、相手は見抜きます。それは本当に見ていないと出てこない言葉なので。
ケンゴ: 訂正する。「褒める」ではなく「観測結果を報告する」だ。管理職として十数年やってきて分かったのは、人は褒め言葉より見られていた事実に反応するということだ。
アキ: それなら分かる。あとね、私からもう一個。佳奈ちゃんに一回だけ、訊いてみてほしいんだ。「エグいって、どういう感じ?」って。責めるトーンじゃなくて、本気の質問として。それ、たぶん佳奈ちゃんは説明できないと思う。でも説明しようとはしてくれる。その時間が二人のあいだに、何かを作る気がする。
サキ: 面白いですね。訂正の反対側から入るということですよね。
ケンゴ: それは有効かもしれない。私は懐疑的だった。だが、相談者の職業的な耳──数値を丸められないという特性は、質問の形にすると武器に変わる。「どのくらい高かったの」「何が危なかったの」。これは訂正ではなく、業務上の確認だ。あなたの精度への要求が、そのまま職場の精度を上げる。相手を裁かずに、あなたの必要を満たす道がそこにある。
シオン: 直そうとするのをやめた人のところに、なぜか正確な言葉が集まってくることがある。……不思議なものだ。求めるのをやめた者だけが受け取れる何かが、あるのかもしれない。
自分に問いかけるロードマップ
- 佳奈さんについて、言葉以外に自分は何を知っているか。三つ挙げられるか。
- 「そんなことないよ」と答えたとき、私は誰を守ろうとしていたのか。彼女か、自分か。
- 「(血圧)どのくらい高かったの」と訊くことは、業務として不自然か。それとも、本来やるべき確認だったか。
- 数えるのをやめられないことを、責める必要が本当にあるのか。
- 十四年後、私の耳を引き継ぐ誰かがいるとして、その人に残したいのは正しさか、それとも確認する習慣か。
本日の羅針盤
ケンゴの見立て: 語彙は訂正しない。代わりに、内容を確認する。「エグい」に対して「何が」「どのくらい」と訊くのは注意ではなく、仕事だ。あなたの感覚は、裁く道具としては関係を壊すが、確認する道具としては職場の質を上げる。同じ耳の使いどころを変えるだけの話だ。
アキの見立て: 一回だけ、興味の側から入ってみて。「それ、どういう感じ?」って。翻訳しようとする人にはみんな、案外ちゃんと答えてくれるんだよね。
サキの見立て: 「そんなことないよ」の嘘を責めないでください。それは十四年分の優しさがとっさに出た形です。次に同じことを訊かれたときのために、ひとつ用意しておけばいいだけなんですね。
シオンの余韻: 数えていた三回は、聞き逃さなかった三回でもある。同じ回数だ。名前だけ、まだ決まっていない。
なお、職場の人間関係の緊張が長引き、出勤前に体調が崩れるような状態になった場合は、産業医や自治体の相談窓口の利用もご検討ください。ひとりで運用を続けることがいつでも最善とは限りません。




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