【40代50代の仕事論】「この会社好きですか」に答弁を濁したあなたへ贈る、新しい組織との距離感

「家族」だった会社が、ただの取引相手になった日

物流倉庫の管理を任されて七年になる。五十二歳、独り身。先週、若い派遣のスタッフに「課長、この会社のこと好きですか」と無邪気に聞かれて、私は咄嗟に言葉を濁した。好きも嫌いもない、給料の出どころだ──そう答えかけて、飲み込んだ。

私が新卒で入った頃、当時の専務はよく「うちは一蓮托生だ」と言っていた。正月には社員の家族まで招いた餅つきがあって、子どもの頃の私の同僚も、そこで走り回っていたらしい。今その話をすると、若い連中はぽかんとする。気持ち悪い、とまでは言わないが、明らかに別世界の風習を聞く顔だ。

不思議なのは、私自身もうそういう湿った関係を望んでいないことだ。会社に尽くせと説教されたら、たぶん白ける。ドライでいい。割り切れていて、その方が楽だ。なのにあの派遣の子の質問が、なぜか倉庫の蛍光灯の下で何日も引っかかっている。私たちはいったい、何を手放したんだろう。

よりみちナビゲーターの対話

ケンゴ:率直に言ってこの問いには、明確な経緯がある。愛社精神という文化が消えたのは、誰かが意地悪をしたからではない。会社と個人をつなぐ「契約の形」そのものが、五十年かけて書き換えられたからだ。

サキ:契約の形、ですか。

ケンゴ:そうだ。戦後の日本企業は、終身雇用と年功序列を前提に成り立っていた。出光興産の創業者・出光佐三(いでみつ さぞう)は「社員は家族」を掲げ、定年制も出勤簿も置かなかったと伝えられている。極端な例だが、それは情に厚かったというより、長期雇用を保証する代わりに忠誠を求める、合理的な交換だったと私は思う。会社が一生面倒を見る。だから社員も会社に尽くす。釣り合っていたんだ。

アキ:でもさ、それって本当に「釣り合ってた」のかな。会社が守ってくれる代わりに、転勤も残業も全部のみ込めって話でしょ。私からすると、家族っていう言葉で逃げ場をなくされてるようにしか見えないんだよね。

ケンゴ:アキの言うことも分かる。ただ──当時の労働者にとってその「逃げ場のなさ」は、同時に「放り出されない安心」でもあった。光が当たれば影もできる。問題は、その後だ。バブルが崩壊して、会社はもう一生を保証できなくなった。一九九〇年代後半、リストラという言葉が日常語になる。会社が約束を守れなくなった以上、社員に忠誠を求める根拠も消えた。交換が、片方から崩れたんだ。

サキ:守れなくなったのに言葉だけ「家族」が残っていたら、それは確かにしんどいですね。私、フリーランスになる前に小さな会社にいたんですけど、給料は上がらないのに「うちは家族だから」って残業を頼まれて。生活が回らないのに情で縛られるのは、いちばん苦しい形です。

ケンゴ:まさにそれだ。二〇〇〇年代に入ると、今度は株主価値の時代が来る。堀江貴文(ほりえ たかふみ)氏のような起業家が、「会社は株主のものだ」と言い切って世間に衝撃を与えた。あれは乱暴に聞こえたが、商法・会社法上は正論でもある。会社は株主が出資して作る器だ。その視点では、社員は資産ではなく、コストとして計上される「労働力」になる。家族から、取引相手へ。この相談者が感じている冷たさは、思想の堕落ではなく契約観の更新の結果なんだ。

アキ:……理屈はわかる。わかるんだけどさ。じゃあ、派遣の子が「この会社好きですか」って聞いた、あの一瞬の温度はどう説明するの。あれって契約とか株主とか関係なく、ただ「ここにいる人と、ちゃんとつながりたい」っていう気持ちじゃない? 構造が変わったからって、その気持ちまで消えたわけじゃないと思う。

サキ:その子の質問、無邪気だったって書いてありましたよね。たぶん損得じゃなくて、毎日通う場所への素朴な感情だったんだと思います。生活の大半を過ごす場所ですから。

ケンゴ:……ところで、ご本人の話に戻るが。相談者が手放したくないと感じているのはおそらく、「家族としての会社」ではない。あの湿った忠誠は、本人も望んでいないと書いている。そうではなく、人と人とが同じ場所で時間を過ごすことから自然に生まれる、名前のつかないつながり。それを契約のドライさが回収してしまったことへの、かすかな喪失感ではないか。

自分に問いかけるロードマップ

あなたが手放したくないと感じているのは、「会社への忠誠」だろうか。それともそこにいる「人とのつながり」だろうか。この二つは混ぜて語られがちだが、本当は別のものだ。

ドライな関係が楽だと感じるとき、あなたが守ろうとしているのは何だろう。過剰な期待に巻き込まれない距離か。それとも、傷つかないための予防線か。

愛社精神という言葉が消えても、あなたが派遣の子の一言を何日も覚えているのはなぜか。その引っかかりの正体を、もう少しだけ見つめてみる価値はないだろうか。

本日の羅針盤

ケンゴの視点に立てば、愛社精神の消滅は、終身雇用という保証が崩れ株主価値という新しい原理が会社の定義を書き換えた、構造の必然だ。誰も悪くない。これは堕落ではなく、契約観の更新である。

だがアキとサキが指し示したのは、構造が変わっても消えない「人と場をめぐる素朴な感情」だ。会社を愛する必要はない。けれど、同じ場所で時間を過ごす人と損得を超えてつながりたいという気持ちまで、契約のドライさに明け渡す必要もない。

会社との関係はドライでいい。その楽さは本物だ。ただ、その楽さの中であなたがあの一言を捨てきれずにいるのなら──手放すべきは「会社への忠誠」であって、「人とのつながり」ではないのかもしれない。羅針盤の針は組織でなく、隣にいる人の方を指している。

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