【40代50代の仕事論】「この会社好きですか」に答弁を濁したあなたへ贈る、新しい組織との距離感

第二章 三つの転換点 ──「家族」「株主」「労働力」はどこで入れ替わったのか

派遣の子の質問が引っかかったまま、私は週末、近所の図書館に足を運んだ。柄にもない。経済の棚の前で背表紙を眺めていたら、戦後の日本企業について書かれた古い本が一冊だけ、日に焼けて立っていた。
借りて帰り、台所の小さな灯りの下でページをめくる。独り身の部屋は静かで、ページをめくる音だけが妙に大きい。
読み進めるうち、私が漠然と「昔はよかった」とも「今は冷たい」とも片づけていたものが、実は三つのまったく別の時代が重なっていただけなのだと、ぼんやり見えてきた。

よりみちナビゲーターの対話

ケンゴ:第一章で経緯の骨格を示した。ここからは三つの転換点を、一つずつ分けて見ていきたい。混ぜて語ると「昔はよかった」という郷愁になる。分けて見れば、それぞれに固有の論理があったことが分かる。

まず第一の点、出光佐三の「社員は家族」だ。これを情の経営として美化ばかりするのは、半分しか見ていない。当時の日本は、雇用の流動性が極端に低かった。一度入った会社を辞めれば、再就職はほぼ不可能。つまり社員は逃げられない。逃げられない相手に対して、会社が「一生面倒を見る」と保証する。これは温情であると同時に、極めて合理的な囲い込みでもあった。

サキ:逃げられない、という前提があったんですね。今だと転職は当たり前ですけど、当時はそもそも選択肢がなかった。

ケンゴ:そうだ。出口がないからこそ、内部を居心地よくする必要があった。社宅、運動会、家族ぐるみの付き合い。それは福利厚生というより、人生まるごとを会社に統合する装置だった。社員は会社の中で生まれ、働き、老いる。会社が小さな共同体国家だったんだ。

アキ:……うーん。聞いてて思うんだけど、それって本人たちは「家族だ」って信じてたわけでしょ。装置だ、合理的だって言われると、なんか身も蓋もなくない? 信じてた人の気持ちはどこに行くの。

ケンゴ:アキの感覚は分かる。ただ──私は、信じていた気持ちが嘘だったとは言っていない。むしろ逆だ。構造が情を支えていたから、情が本物として成立した。出口がなく、一生をともにすると分かっているから、人は本気で同僚を家族だと思えた。条件が揃っていたんだ。問題はその条件が後に崩れたとき、情だけが宙に浮いて残ったことだ。

サキ:条件が崩れたのに、気持ちの記憶だけ残った。さっき相談者さんが図書館で感じていたのも、その宙に浮いた情の手触りなのかもしれませんね。

ケンゴ:第二の点に進もう。バブル崩壊後、終身雇用という条件が崩れる。会社は社員を一生抱えきれなくなった。ここで登場するのが、二〇〇〇年代の株主価値の思想だ。堀江貴文氏に象徴される「会社は株主のものだ」という考え方は、実は世界標準に追いついただけとも言える。アメリカでは一九七〇年代から、企業の目的は株主利益の最大化であるという考えが主流だった。日本は二十年遅れて、それを輸入したんだ。

アキ:それ、当時すごい叩かれてたよね。なんか、お金がすべてみたいに言われて。

ケンゴ:叩かれた。だが、論理としては筋が通っている。会社は株主が出資して作る器だ。器の所有者は株主だ。だとすれば、社員は器の中で働く存在であって、所有者ではない。冷たく聞こえるが、これは法的にも会計的にも正確な記述だ。そして正確であるがゆえに、反論しにくい。家族論が情に訴えるのに対し、株主論は数字と権利で語る。土俵が違う。

サキ:でも、その正確さの中だと毎日通って働いている人の生活実感が、どこにも勘定されないんですよね。私が小さな会社で「家族だから」と言われて疲れたのは確かです。でも、株主のためのコストですと言われたら、それはそれで朝起きて出勤する理由が見つからなくなる気がします。どっちの極にも、生活している人間の居場所がないんです。

ケンゴ:……サキの指摘は重い。第三の点が、まさにそこだ。家族でもなく、株主のものと割り切るのでもなく、現在たどり着いたのは「労働力」という、もっとも乾いた定義だ。労働力とは、必要なときに必要な量だけ買う、市場の商品だ。
派遣、業務委託、ジョブ型雇用。どれも人を共同体のメンバーとしてではなく、機能として扱う。これは株主論よりさらに踏み込んでいる。株主論は少なくとも「会社」という器を前提にしていたが、労働力論では、その器に属する必要すらない。

アキ:……それ、めちゃくちゃ寂しい話に聞こえるんだけど。

ケンゴ:寂しいかどうかは、立つ位置による。私は氷河期世代だ。家族でも株主のものでもない、ただの労働力として扱われてきた最初の世代でもある。だから言えるが、労働力として扱われることには一つだけ自由がある。会社に人生を預けなくていい。会社が傾いても、私の人生まで道連れにはならない。出口のなかった時代に比べれば、これは確かに獲得した自由なんだ。

サキ:自由と引き換えに、つながりを失った。

ケンゴ:そういうことになる。ご本人の話に戻ろう。相談者は、ドライな関係が楽だと書いていた。それは正しい。労働力としての契約は、人生を預けずに済む自由を本人にもたらしている。だが図書館で本を借りて、台所で一人ページをめくる夜の手触りは、自由の裏側で失ったものの記憶だ。獲得と喪失は、同じコインの裏表なんだ。

アキ:……ねえ、ケンゴ。氷河期で苦労したあなたが「自由だ」って言うの、すごく分かる。分かるんだけどさ。その自由って、本当に望んで選んだ自由だった? 選択肢がなくて、そう思うしかなかった自由じゃない? 私、そこだけは確かめたいんだ。

ケンゴ:……。鋭いな、アキは。

自分に問いかけるロードマップ

三つの時代──家族・株主・労働力。あなたが「気持ち悪い」と感じるのは、このうちどれだろう。説教調の愛社精神に白けるのは第一の時代の情を、条件が崩れた今に持ち込まれるからかもしれない。

ドライが楽だと感じるあなたは、第三の時代の自由を享受している。では、その自由はあなたが選び取ったものだろうか。それとも、ほかに道がなくてたどり着いたものだろうか。

会社に人生を預けない自由と、人とつながる温度。この二つは本当に両立できないものだろうか。それともあなたはまだ、誰もうまく言葉にできていない第四の関係を、台所の灯りの下で探しているのだろうか。

本日の羅針盤

ケンゴの整理によれば、三つの時代にはそれぞれ固有の論理があった。家族の時代は出口のなさが情を支え、株主の時代は権利と数字が冷徹な正確さをもたらし、労働力の時代は人生を預けない自由を個人に与えた。どれも堕落ではなく、条件の変化に対する合理的な応答だった。

だがアキは、その自由の出自を問うた。氷河期世代が手にした自由は選び取ったものか、選ばされたものか。サキは三つのどの極にも、「生活している人間の居場所」がないと指摘した。この二つの問いは、ケンゴの整然とした歴史の整理に答えのない余白を残す。

愛社精神が消えたのは必然だ。それは事実だ。だが、その先で私たちが手にしたドライな自由が本当に幸福な自由なのかどうかは、まだ誰も結論を出していない。あなたが台所で一人、古い本をめくっているなら──あなたは今まさに、その未解決の問いの最前線に立っている。

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