【40代50代の仕事論】「この会社好きですか」に答弁を濁したあなたへ贈る、新しい組織との距離感

第三章 第四の関係 ──愛さなくていい、けれど

図書館で借りた本を返しに行った帰り道、もう日が長くなっていて、夕方の六時でも空が薄青かった。倉庫からの帰りにいつも通る川沿いの道を、その日はゆっくり歩いた。
あの派遣の子の質問から、もう二週間が経っている。「この会社、好きですか」。
私はあのとき言葉を濁したが、今ならどう答えるだろう。好きではない。だが、嫌いと言い切るには、毎朝あの倉庫のシャッターを開ける手の感触が、私の体に馴染みすぎている。好きでも嫌いでもない、その間にある名前のない場所。私が探していたのは、たぶんそこに置く言葉だ。

よりみちナビゲーターの対話

アキ:ねえケンゴ。第二章の最後に私が聞いたこと、まだ答えてもらってないよ。氷河期で手にした自由って、本当に選んだ自由だったの?

ケンゴ:……逃げていたつもりはないが、答えるのに二週間分の時間が要った、ということにしておこう。正直に言う。あれは選ばされた自由だった。私たちの世代は、会社に人生を預けたくても預ける相手がいなかった。だから「預けないことを自由と呼ぶ」しかなかった。負け惜しみに近い自由だ。アキの問いは、その負け惜しみを正面から見ろと言っていた。

サキ:認めるの、勇気が要りましたよね。

ケンゴ:だが、認めたうえでもう一つ言いたいことがある。選ばされた自由であっても、私はそれを使って何かを選び直すことはできる。出自が不本意でも、使い道は私のものだ。ここが相談者への、私なりの答えの入り口になる。

アキ:使い道、か。

ケンゴ:相談者は、ドライな関係が楽だと言っている。これは尊重すべきだ。愛社精神を取り戻せなどと言うつもりは私にはない。あの説教調の忠誠は、条件が崩れた今となっては本人を縛るだけの空文だ。だが、ドライであることとつめたく断絶することは、同じではない。ここを混同すると、自由が孤立にすり替わる。

サキ:ドライと、冷たさは違う。

ケンゴ:そうだ。たとえば毎朝、シャッターを開ける手の感触。それは愛社精神ではない。会社への忠誠でもない。ただ、自分が日々を過ごす場所への、身体的な馴染みだ。私はこれを「縁(えにし)に近いが、忠誠ではないもの」と呼びたい。会社という器を愛する必要はない。だが、その器の中で隣り合った人や、毎日触れる道具や見慣れた風景に対して、淡い手触りを残しておくこと。それが第四の関係だと私は思う。

アキ:……それ、いいね。私さ、ずっと「会社なんてどうでもいい」って言ってきたけど、本当は同じフロアの先輩が辞めるとき、ちょっと泣きそうになったんだよね。会社は別にどうでもいいの。でも、あの人がいる場所としての会社は、どうでもよくなかった。たぶんそれが、ケンゴの言う第四の関係なんだと思う。

サキ:分かります。私もフリーランスになって、組織への帰属はきれいに手放しました。でも、たまに昔の同僚と連絡を取ると、会社そのものじゃなくてあの頃その人と過ごした時間に、まだ温度が残っているんです。器は手放していい。器の中で起きた個別のことは、手放さなくていい。

ケンゴ:まさにそれだ。愛社精神という言葉が抱え込んでいたものを、私たちは一度ばらばらに分解する必要がある。組織への忠誠。これは捨てていい。条件が崩れた今、空文だからだ。会社の所有構造。これは株主のものだ。事実として受け入れればいい。だが、その下に埋もれていた、人と場をめぐる淡い手触り。これだけは契約のドライさに巻き取らせる必要がない。むしろ忠誠を捨てたからこそ、純粋なものとして手元に残せる。

アキ:忠誠を捨てたから、つながりが純粋になる。逆説だね。

ケンゴ:相談者が川沿いを歩きながら、好きでも嫌いでもない場所に置く言葉を探していた。その言葉はたぶん、「好き」でも「忠誠」でもない。「馴染み」だ。あるいは「縁」だ。声高に語るものではなく、シャッターを開ける手の中に、すでにある。

サキ:……ご本人はもう、答えを持っていたのかもしれませんね。手の感触が馴染みすぎている、って書いていらしたから。

自分に問いかけるロードマップ

あなたが手放したいのは、組織への忠誠だろうか。それなら迷わず手放していい。それは今の条件では、あなたを縛るだけの空文だ。

あなたが手放したくないのは何だろう。毎朝触れる道具の感触か、隣に座る誰かの存在か、見慣れた風景か。それは忠誠とは別の場所にある、あなただけの淡い手触りではないだろうか。

ドライであることと、つめたく断絶すること。あなたはこの二つを、知らないうちに同じものとして扱っていなかっただろうか。自由を選ぶことはつながりを捨てることと、必ずしも同じではない。

本日の羅針盤

ケンゴは最後に、自らの自由が「選ばされた自由」だったと認めた。その上で、出自が不本意であっても使い道は自分のものだと言い切った。これが本日の結論の核心になる。

愛社精神は消えた。それは時代の必然であり、嘆くべきことではない。組織への忠誠は捨てていい。会社が株主のものであることも、事実として受け入れていい。だが、その下に埋もれていた「人と場をめぐる淡い手触り」だけは、契約のドライさに明け渡す必要がない。むしろ忠誠を捨てたからこそ、それは純粋なものとして手元に残せる──これがケンゴの示した道だ。

アキは、会社ではなく「あの人がいる場所」を手放せなかった自分を語った。サキは、器は手放しても器の中で起きた時間には温度が残ると語った。三人がそれぞれの言葉で指し示したのは、忠誠でも所有でもない、第四の関係だ。

あなたが川沿いの道で探していた言葉は、「好き」でも「嫌い」でもなかった。それは「馴染み」であり「縁」だった。声高に掲げるものではなく、毎朝シャッターを開けるあなたの手の中に、すでに宿っている。会社を愛さなくていい。けれど、その手の感触までドライに捨ててしまう必要はどこにもない。羅針盤の針は組織でも自由でもなく、あなたの手のひらの温度を指している。

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