あの日の一言を悔やむあなたへ。娘を亡くした父親が8年目にみつけた“返事”

エピローグ ―― 火曜日の、ただの昼に

その日は、なんでもない火曜日だった。

朝から曇っていて、昼になっても陽は差さない。彼は工場のシャッターを半分だけ開け、いつものように旋盤の前に立っていた。切削油の匂いが、湿った空気に低く漂っている。金属を削る音が、断続的に工場の壁に跳ね返る。ギュインと高く鳴って、ふっと止まる。その繰り返し。

昼を告げるものは、何もなかった。町工場に定時のチャイムなどない。ただ、腹が減ったなと思って手を止めた。それだけのことだ。

作業着の袖で額の汗を拭う。八年間、この所作のたびに胸が塞いだ。けれどその日は、なぜか少しだけ違った。

弁当箱を開けると、卵焼きが端に寄っていた。少し甘めのいつもの味。妻はまだこうして作ってくれる。箸でつまんで口に入れたとき――ふいに思い出した。

あの子はこの卵焼きが好きだった。

「お父さんばっかりずるい」と言って、朝、台所からくすねていった。運転の荒い、口の減らない娘だった。工場の隅で、油の匂いのなかで、「私が一番先にいなくなる気がする」と言った、あの声。

八年間、その声はいつも刃のように彼の胸を刺してきた。何と言えばよかったのか。どう返せば救えたのか。

けれどその昼、旋盤の音が止んだ静けさのなかで、聞こえた声は違っていた。

――お父さん、まだ工場やってるんだ。

かすかなのに、はっきりと。それは記憶の再生ではなかった。責める声でも、悲しむ声でもなかった。ただ、笑っていた。運転が荒くて、口が減らなくて、卵焼きをくすねていったあの時のままの声で。

――ちゃんと食べてる? 卵焼き、私の分も食べていいよ。

彼は箸を止めた。

工場のなかは静かだ。半分開いたシャッターの向こうで、曇り空がわずかに明るみかけている。空耳だと分かっている。分かっていて、それでも彼はそれを空耳とは呼びたくなかった。

八年間、彼はずっとあの朝に間に合う「正しい言葉」を探していた。過去へ過去へと、手を伸ばし続けた。

けれどその昼、彼が口にしたのは過去への返事ではない。

「……ああ。まだ、やってるよ」

誰もいない工場で、彼は小さくそう言った。声に出して、娘に答えた。八年ぶりに、彼は娘へ「返事」を渡した。それは謝罪でも、悔いでもなかった。今の自分から今の娘へ告げる、ただの近況報告だ。

目の奥が熱くなった。けれどそれは、これまでの涙とはどこか違う温度だった。塞ぐような痛みではなく、詰まっていたものがゆっくりとほどけていくような。

卵焼きの残りを口に入れた。甘い味が、いつもより深く沁みる。

弁当を閉じて、また作業着の袖に腕を通す。もう、同じ所作ではない。八年間、袖を通すたびに胸を塞いだその動作に、今日はかすかにあの子の気配が寄り添っていた。

旋盤のスイッチを入れる。ギュインと高い音が、また鳴りはじめる。

その音に、もう娘の声は混ざっていない。けれど彼は、知っていた。次の火曜日にも、その次のなんでもない一日にも、あの子はまた、ふいに隣に戻ってくる。命日でなくても、誕生日でなくても。卵焼きの甘さのなかに、旋盤の止んだ静けさのなかに。

失ったのではなかった。ただ、いる場所が変わっただけだ。

彼は削りはじめた。金属が少しずつ、あるべき形になっていく。

曇り空の隙間から細い光が一本、工場の床に落ちていた。


その日の夜、久しぶりに妻と娘の話をした。運転が荒くってなと言い、少しだけ笑った。妻も笑った。

八年間、二人のあいだでその名前は重すぎて口にできなかった。けれどその夜、食卓の上にあの子の席が、そっと戻ってきた。

悔いはまだ消えていない。たぶんこれからも、完全に消えることはないだろう。

けれど彼はもう、悔いだけを握りしめてはいない。手のひらには卵焼きの甘さも、笑った横顔も、「お父さんばっかりずるい」という声も、ちゃんと乗っていた。

明日も、旋盤は鳴る。朝が来れば、また袖を通す。

その朝を彼はもう、恐れてはいなかった。

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