特別編 ―― 「責任は私が取る」と言った人の、その後を追って
私は『感情の羅針盤』編集長です。本特別編の執筆チームと品質チームをご紹介します。
今回は個人の悩みを離れ、公的な言動と責任のあり方という、社会的なテーマへの考察をご要望いただきました。
構造と長期の視点から責任論を担うケンゴをメインに据え、生活者の実感から検証するサキ、そして時間軸を引いて本質を問うシオンの三名を執筆担当とします。
なお本稿は、実在の公人による公開の場での発言を素材とした社会評論です。特定個人の人格を貶める目的ではなく、公的責任のあり方を考える読み物として構成します。また、ワクチン接種そのものの医学的是非を断定するものではありません。接種の判断は個々人が信頼できる医療者と相談のうえ行うべきものであることを、先にお断りしておきます。
よりみちナビゲーターの考察
ケンゴ:まず、言葉を額面どおりに受け止めるところから始めたい。
2021年5月、当時のワクチン担当大臣が「自治体がやったことで批判があれば、それは私が責任を取る」「全責任は私が引き受ける」と述べた。
文脈は廃棄されそうなワクチンを有効活用するために、自治体が萎縮せず動けるよう背中を押すものだった。ここまでは危機下のリーダーとして、私は一定の合理性を認める。判断を促すために責任の所在を自分に引き寄せる。これ自体は組織を動かす言葉の使い方として、間違ってはいない。
サキ:ケンゴさんの言うことも分かります。ただ問題は、その「責任を取る」が後になって何を意味したのか、ですよね。当時、台所のテレビでそういう言葉を聞いた母親たちは、「ああ、偉い人がそこまで言うなら」と、腕をまくったんです。子どもを、家族を、職場の同僚を守るために。「責任は私が取る」はその人たちにとってただの政治的なレトリックではなく、生活の中で背中を押される重たい一言だったんですよ。
ケンゴ:そこだ。「責任を取る」という言葉には本来、二つの意味がある。一つは「決断を促すために、批判の矢面に立つ」という、事前の覚悟。もう一つは「実際に不都合が生じたとき、その後始末を引き受ける」という、事後の履行だ。前者だけを果たして後者を果たさなければ、それは責任を取ったことにはならない。言葉だけが宙に浮く。
サキ:私が引っかかっているのは、まさにそこなんです。
後になって専門家組織のトップだった方が、ある討論番組で「若い人は感染しても重症化しないし、副反応も比較的強いから。本人たちがやりたいなら、どうぞ」という趣旨のことを話しました。「感染を防ぐ効果は、残念ながらあまりなかった」とも。
私はこれを聞いたとき、あの日わが子の腕をまくった母親たちの顔が浮かんで、胸が詰まったんです。「やりたいなら、どうぞ」って——当時そんな突き放した言い方、どこにも聞こえてこなかったじゃないですか。
ケンゴ:その番組では共演していた元知事らからも、「それはいつの段階の話か」「当時、そのアナウンスは一般には届いていなかった」という疑問が上がった。ここに公的責任の核心的な問題がある。
発言者本人は、「かなり早い段階から何度もそう言ってきた」と釈明した。仮にそれが専門家の内部や一部の会見では事実だったとしても——国民が実際に受け取っていたメッセージは「社会のために、大切な人のために、一斉に打つべきだ」という、はるかに強いものだった。
この受信された現実と、送信したという主張のあいだのギャップを、送り手の側の釈明だけで埋めることはできない。
サキ:「言ったはずだ」と「届いていなかった」は、同じ責任の重さじゃないですよね。届かなかったなら、届けられなかった側に大きな責任がある。少なくとも、届いていなかった人たちに向かって「本人がやりたいなら、どうぞ」と後から軽いトーンで言うのは……順序が逆だと思うんです。同調圧力を作った側が、事が済んでから「あれは自由意志でしたよね」と言うのは。
シオン:少し時間軸を引いてみたい。私が気にかかっているのは「責任」という言葉の、賞味期限のようなものだ。危機のさなかに「責任は私が取る」という言葉は、松明のように明るく灯る——いや、この比喩はやめておこう。危機のさなかには、その言葉は人々を動かす強い力を持つ。
だが危機が去ったあとその言葉を発した者に、当時と同じ熱で「では、どう取るのか」と問い続ける者は、驚くほど少なくなる。
世間の関心は移ろう。だが、心筋炎や血栓症といった重い副反応の被害に遭った人、そのご遺族にとって危機は終わっていない。関心が引いた海岸に、ただ一人取り残されている人がいる。
ケンゴ:シオンの指摘は重要だ。事実として接種開始当初、厚生労働省や専門家組織は「高い安全性と有効性」を前面に押し出した。その後、心筋炎などの重大な副反応が注意事項として追加された。
ここで問われるのは、リスク情報を周知するスピードと被害を受けた人の救済認定を進める速さが、「打たせるときの熱心さ」に見合っていたか、という点だ。
「打たせるときだけ積極的で、被害が出た後の対応が遅い」——この非対称性こそが、被害者やご遺族が法廷の場も含めて訴え続けている、責任の未履行の中身だと私は理解している。
サキ:ケンゴさん、私さっきから責める側に立ちすぎているかもしれません。一つ、公平に言っておきたいことがあって。
当時は本当に何も分からない中で、多くの人が必死に判断していました。専門家も、政治家も、限られた情報で間違えることもある。それ自体を後出しで断罪するのは、フェアじゃないとも思うんです。
私が許せないのは「間違えたこと」ではなくて、間違えたかもしれないと分かった後の態度なんです。
ケンゴ:それは正しい区別だ。私も同意する。危機下の判断の誤りは、事後の視点からはいくらでも批判できる。だがそれは、後知恵だ。本当に問われるべきは新しい事実が出てきたときに、送り手が「かつての自分の強いメッセージ」に対してどれだけ誠実に向き合ったか。
「早くから言っていた」と自己を防御することに使うのか、「あの呼びかけで背中を押された人たちに、今どう応えるか」に使うのか。同じ口で語られても、その二つはまるで違う。
シオン:結局のところ、責任とは名詞ではなく動詞なのかもしれない。「責任を取る」と口にした瞬間に責任が発生し、口にしなくなった瞬間に消えるようなものではない。それは被害を受けた人がまだそこにいる限り、続いている行為だ。「取る」と言った人が語るのをやめても、責任のほうは勝手に立ち去ってはくれない。
自分に問いかけるロードマップ
一つめ。私たちは「責任を取る」という言葉を聞いたとき、その言葉の後ろに事後の履行まで見届けているでしょうか。それとも力強い一言に安心して、そこで見るのをやめてしまっていないでしょうか。
二つめ。当時、私自身も含めて「みんなが打つから」という空気の中にいたとして、その空気を作った責任は発言者だけにあるのでしょうか。私たち一人ひとりがその空気の一部ではなかったか。この問いは誰かを免罪するためではなく、次に同じ空気が来たとき、少しでも立ち止まれるようにするためのものです。
三つめ。もし今、副反応の被害に遭った人が身近にいたとして、私はその人に「あのときは仕方なかった」と言うでしょうか。それとも隣に座って話を聞くでしょうか。社会の責任とは案外、その一人に対する態度の集積なのかもしれません。
本日の羅針盤
ケンゴの視点から。責任とは決断を促すための「事前の覚悟」と、不都合を引き受ける「事後の履行」の両輪です。
前者だけを果たして後者を怠れば、それは責任を語っただけで取ってはいない。「責任は私が取る」「効果はあまりなかった」「やりたいならどうぞ」——これらの言葉が同じ人の口から時期を違えて発せられたとき、受け手が「後付けの自己弁護」と感じるのは、この事後の履行の空白を鋭く嗅ぎ取ったからだと考えます。
サキの視点から。私が最後に言いたいのは、被害に遭った人を社会の関心が去った海岸に置き去りにしないでほしい、ということだけです。効果があったのか、なかったのか。あの呼びかけは正しかったのか。その総括は必要です。でも、それ以上に急ぐべきは目の前で苦しんでいる人の救済認定を、一日でも早く進めることではないでしょうか。理屈の総括より、生活の回復のほうがいつだって先です。
シオンの視点から。危機は多くの言葉を安く発行させます。危機が去ったあとに残るのは、その言葉を本当に履行したか、その一点だけです。
「責任を取る」と言った松明の光——その言葉の熱は危機が去っても冷めてはならないものです。冷めたのだとしたら、それは言葉が軽かっただけではなく、私たちがその言葉を追い続けるのを途中でやめてしまったからかもしれません。
最後に、読者の皆さまへ。
ワクチンを打った選択も、打たなかった選択も、当時の限られた情報の中でのそれぞれに誠実な判断でした。どちらの人も、責められる筋合いはありません。もし接種後の体調不良や、健康被害への不安を抱えている方がいらっしゃれば、予防接種健康被害救済制度やお住まいの自治体・医療機関の相談窓口へ、どうか一人で抱えずご相談ください。制度は使われるために存在しています。




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